花は灯、舟は闇路に還りゆく(20)

 昴くんとは、港にさしかかる辺りで別れた。
 途切れ途切れに響く潮騒の音を聞きながら、わたしは海辺の道を行く。今日は誰が発つことも、新しく死者が来ることも無かったらしい。港に船の姿は無く、港守の斑猫は大きな欠伸をしていた。浜の半分を埋めるひなげしは皆眠りに耽り、風が穏やかに幾百の蕾を撫でていく。鈴に似た音が波と重なる。目的の広い背中が、先日船を見送った辺りに真っ直ぐ発っているのが見えた。
 凌さんの予想通り、終夜さんはまだそこにいた。波が届くか届かないかの位置に立ち、闇に溶け込む水平線を見つめている。わたしは眠っている花たちを踏まないよう気を付けながら砂浜に降り、立ち尽くす彼の元を目指して歩を進めた。彫りの深い端正な横顔が、対岸の無い真っ直ぐな水平線をただじっと眺めている。
 彼の口元が、小さく動いた。
 わたしは足を止める。その間も、彼は揺れる波間に向かって何かを囁いていた。口の動きだけで意思表示をする時のような、はっきりとしたものではない。実際に彼に声があったとしても、きっとわたしまでは聞こえなかっただろうというほどの微かな動きで、
 その表情は、あまりにも悲痛だった。
 声を掛けようか迷った矢先、わたしの足は計らず砂を踏みしめていた。きゅうと砂が鳴き、終夜さんはすぐさまはっと振り返る。目が合った。
「あ――ごめんなさい」
 警戒するような彼の様子にわたしも驚き、咄嗟に返す。終夜さんは首を横に振りながら、心なしか僅かにほっとした様子を見せた。ひなげしの葉と砂が混ざり合う部分にわたしを誘い、並んで腰を下ろす。細い小石の先で、彼は丁寧に砂上に文字を書いた。
『どこに行っていたの』
「お社をぐるっと巡ってきました。一番古い女の人と犬の絵が、凄く綺麗で……全部彫刻なのに実際にここにいるみたいで、感動しました」
『おれも、あの絵は好きだ』
『大切な人だったんだと思う』
『じゃないと、あそこまではっきり描けない』
「わたしも、そう思います」
 答えながら、彼の手の甲が目に入った。繊細そうな表情とは真逆の、男の人らしい大きくて骨っぽい、少し厚みのある手。この手が、わたしの輪郭を教えてくれた。けれど――と、わたしは想像を巡らせる。きっと生前にも、彼はこの手で他の誰かに触れていたはずだ。あんなふうに優しく、それでいて力強い心地のままで。
「終夜さんも……」
 わたしは膝の上で、左手首のブレスレットを握りしめていた。
「……生前に、大切な人がいたんですか?」
 終夜さんの動きが止まり、直後、潮騒の音がやけに大きく感じられた。
 彼の口が短く動いた。何を言ったのかはわからない。気分を害したふうではないけれど、それまであった微笑は消えている。わたしは慌てて取り繕った。
「いえ、すみません。その……ちょっと気になっただけです。忘れて下さい」
 踏み込んではいけないと、思ったばかりなのに。
 終夜さんは腕を伸ばして文字を消し、手のひらで足下の砂を掬った。水平線からきた風に流され、乾いた砂は掬った側からさらさらとこぼれ落ちていく。彼は考え込んでいる目で砂を見つめ、最後の一粒になるのを待つこともなく手を下ろした。再び石を手に取り、ゆっくりと字をしたためる。
『手を放してしまったんだ』
 一瞬何のことだかわからなかったけれど、それは確実にわたしの問いへの答えだった。手を離したということは、掴んでいた誰かがいたということで、わたしの想像が当たっていることを意味する。そして、その誰かが彼にとっての壁画の女性なのだろう。
「――それが、後悔?」
 頷き、また砂へ向かう。
『あのときの、選択の全てに』
 伏せられた目の暗さに、わたしは訳もなくぞっとして息を飲んだ。彼の言葉は少ない。けれどその数からは考えつかないほどの深い何かが裏側にある。生前の身の上に、大切な人との間に何があったのかはわからない。ただ彼の今の身体を造り上げているのは、それらの後悔、もっと言うなれば絶望に他ならないと思えた。
「終夜さん――」
 自分から聞き出したことだったのに、わたしは言葉を続けられなかった。鹿城さんの目が淀み故の黒なら、終夜さんの目は澄みきっているが故の黒だ。黒の濃さで底の深さを知らされる、深海のような純粋な闇。わたしはその闇に怖気付きながらも淵に立ち、奥深くに沈んでいる何かに触りたくて、覗き込まずにはいられなかった。そして自分自身の過去以上に、わたしは彼の奥行きに胸を掴まれてしまっている。波間に投げかけていた言葉が、大切だったその人に向けてのものであることも、わたしは既に気付いていた。
 けれど、終夜さんはすぐに顔を上げた。ごめんと声無く言い、軽くわたしの頭を撫でる。まるでれんくんをあやすような仕草にもどかしさも感じながら、先日二人でいた夜のことを思い出し、わたしはされるがままに髪を梳かれた。そして、これがこの話は終わりだという合図であることを悟る。
 水平線の闇が空に迫り始めたころ、わたしたちは揃って帰路についた。冷たくなった風に蕾のままのひなげしたちがしゃらしゃらと揺れ、わたしたちを見送る。先ほどよりもずっと薄暗くなった道を言葉も無く歩いている間も、わたしの思考は終夜さんのことでいっぱいになっていた。そして、それは家の門まで来た時に静かに溢れ出す。
「――あの、終夜さん」
 三歩前に進んでいた彼が振り返った。
「その……昔のことを思い出して辛かったら、いつでも話してください。聞くくらいしか、できないかもしれないけど……一人で抱え込んで後悔に押しつぶされるより、ずっと楽になると思います。この前貴方がしてくれたみたいに、わたしは、貴方の支えになりたい」
 早口になっていたかもしれない。けれど、二人きりでなくなってしまう前にどうしても伝えたかった。終夜さんは呆気にとられた顔でわたしを見た後、一瞬だけ狼狽え、照れを抑えた柔らかい顔で笑う。声になれない彼の声が聞こえた。ありがとう。
 胸元に灯がともった。わたしは三歩の距離を駆け、視界の隅では、下弦の月の微かな光を浴びたブレスレットがちかちかと光る。
 同時に、二階の窓辺でカーテンが引かれた。黒い人影がこちらを見ていたのに――わたしはその時、気付くことができなかった。