花は灯、舟は闇路に還りゆく(19)

「これは……」
 感嘆の声が漏れた。薄暗い景色の中で、この建物はうっすらと発光しているようにも見える。ナラカは他の建物ものっぺりとした白っぽいものばかりだけれど、この建物の色味は異常だった。白すぎるのだ。形も多角形をした他の住宅と違い、巨大な缶詰のような円筒型の建物である。光沢のある白い壁が背景の森に馴染んでおらず、綺麗、美しいというよりも、不気味な印象をこちらに与えた。
「ここは、“お社”って呼ばれています」
「お社……って、神社なんですか?」
「いえ。便宜上そう呼ばれているだけす。ここには、神様はいません」
 昴くんが断言する。そして立ち竦むわたしを追い越して、扉のない出入り口から建物の中へと入って行った。後に続きながら、凌さんがわたしを手招く。
「見た目は変だけど、中はそんな危ないわけでも無いぜ。こっち来てみろよ」
 誘われるがまま、わたしは建物の中へと入って行った。内部は広くひんやりしていて、真ん中に置かれたテーブルに大きめのランプと使い差しのマッチが置かれていた。昴くんが、手早くランプに火を灯す。
「――凄いですね」
 光に照らされた目の前の光景に、わたしは思わず感嘆した。
 柔らかなオレンジ色に染められたそれは、精巧に造られた彫刻の壁画だった。入口と向かい合う辺りに、一人の女性が座っている。髪は長く前に垂らし、布を組み合わせたような形の服を着て、優しい微笑をこちらに向けていた。毛の長い四つ脚の動物――犬が彼女に寄り添い、周りにはひなげしやそれ以外の数えきれないほど花が咲き乱れている。天井に近い部分は鳥や雲が飛び交い、一番高い場所には太陽がある。描かれている情景は、決してナラカでは見ることのできないものだ。
「前に先生と一通り調べたんですが、この建物がナラカに今ある中では一番古いものになります」
「古いんですか?」
 表面がきらきらしているから、新しい方のものかと思っていた。
「はい。島全体の建物に使われているこの素材は、海の砂を加工して作られているもので」
「あの砂は、海水を含ませて加熱すると粘性の強い液体になる。常温の砂と掛け合わせて粘土のようにして、乾燥させたら、こんな風に結構な強度が出てくるんだ。で、時間が経てば経つほど表面の色が抜けていく。風化なのか、褪せていってんのかはわかんねーけど」
 凌さんが詳しく付け加えた。
「古いものほど白いってことですか?」
「そう。商店街とかで出したものは、食べ物みたいに消費したり、出した本人が発つと消えちまう。けど、元からこの島にあるものは残り続けるんだ。だから砂を使って造ったんだと思う」
「こういった建物や絵はナラカ中にありますが、多分今凌が言った理由で、ほぼ全てが彫刻です。絵を描くだけなら、紙とペンを自分で出せば良い。でもそれをせず、彼らはわざわざ砂でキャンパスを造って彫った……そこに、意味があるんでしょうね」
 昴くんも壁に描かれた美しい絵を仰ぐ。確かに、ここには神様は居ない。あるのはきっと、現世に思いを馳せていた作者の強い気持ちだけだろう。
「……この人は、描いた人の奥さんでしょうか」
「恋人だったりしてな」
「それか、娘さんかも」
 どうにせよ、きっと親しい特別な人だったに違いない。自分がナラカを発っても、現世の――この人と一緒にいた記憶は消したくない。生きていた時の記憶と共に、自分はここに居たのだと訴える作者の意思が、わたしの空虚な記憶の中に泉のように湧き出てきた。涙が出そうな感覚が起きる。けれど当然流れ出ることは無い。感動はそのままわたしの中に蓄積され、自分は何なのだろうという自問の念と、その問い自体に感じる虚無感を更に大きくした。
 白い壁に彫られたこの絵は確かに無彩色だけれど、目では感じきれないほどの色が溢れている。空の青も葉の緑も、きっと白だけではない花の色も、鳥の羽や犬の毛並みも、そして女性の柔らかそうな肌も、わたしには生き生きと色付いて見える。それほど、この壁画には力が満ちているのだ。死んでも尚他の誰かの心を打つほどの、消し去れない生命の力が。


 お社を出たわたしたちは、島内をぐるりと回る道筋で海の方へと向かった。途中で他のお社をいくつか見たが、中の壁画は全く違う――けれど、共通して現世にしかないモチーフは描いた――ものだった。港の方に近付くにつれ通常の住宅が点在しだし、通りがかる人も徐々に増えてきた。
 商店街の裏側に行く道を選んで進むと、広くて平らな広場――というより、グラウンドと言った方が良いだろうか――が見えてきた。十数人が集まり、何かスポーツをやっている。真ん中に立つ人が投げた小さなボールを、対面する別の人が長い棒で打って飛ばしていた。野球というものだった気がする。一番近くにいた人がこちらに気付いて、大きく手を振ってきた。
「おーい! 凌、昴! 誰だその女の子?」
「この前美作家に来たあかり。高校生だったんだって」
 集まってくる人たちに向けてわたしを前に押し出し、凌さんが慣れた様子で紹介してくれた。グラウンドにいるのはは十代から三十代らしき人が多く、中には女の人もいる。そしてその誰もが、死者と思えないくらい溌剌とした人ばかりだ。
「女子高生か! 早かったんだなぁ」
「この島変なとこだけど、ゆっくりしてくんだぞ」
「俺たち、大抵ここで何かやってるから、たまに見に来てよ」
「――はい」
 戸惑いながら頷くと、周りはおおっと口々に盛り上がった。大人数に囲まれるのは何となく気恥ずかしい。ひとしきり賑やかに話をした後、その内の一人が、使い古したグローブで凌さんの肩を叩いた。
「凌、今日外野一人足りないんだよ。今からでもセンター入らないか?」
「お、そうだな――」
 応えながらもわたしたちを交互に見る凌さんに、昴くんが呆れたように肩をすくめた。
「行って来たら? もうすぐ海だし、他のとこの案内は明日以降でもできるよ」
「わかった。じゃああかり、また明日うちに来いよ」
 そう言って、凌さんはプレーに戻り出す人々の中に入って行った。わたしは昴くんとフェンスに沿った道に戻る。みんなで和気藹々と話しながら野球を始める凌さんを横目に、昴くんは独りごちるように話し始めた。
「凌と僕は、生きていたら同い年になるんです」
「そうなんですか」
「僕のほうが、丁度十年早くこっちに来ました。……僕、生まれた時から病気を持っていて。十代の半ばまで生きたら良い方と言われながら、生きていました。殆ど病院で時間を弄んで、本だけはたくさん読んで。今と変わらないような生活でしたけど……むしろ、動けるだけ今の方がましかも」
 確かに昴くんは男の子にしては肌が白く、体型も華奢だ。グラウンドから目を背けて俯き、彼は自嘲する。
「母さんも父さんも、他の周りの人も、皆同じことを言うんです。もしかしたら今から治って、長生きできるかもしれないよ。だから頑張ろう、諦めないで、って。でも、自分の体のことをわからないわけがない。頑張れば治るなんて奇跡あるわけないって、僕が一番わかっていました。何で生きてるんだろうって思っていた期間はとても短くて、いつの間にか、死ぬために生きていた。ただただ時間を消費していた。僕は自分が死ぬずっと前から、生きることを諦めていたんです」
 わたしも俯き、左手首をブレスごと握りしめた。生きることを諦め、死ぬために生きていた――もしかしたら、わたしもそうだったかもしれない。
「終夜さんが言っていたとおり、後悔、してるんです。死ぬってわかっていても、もっと藻掻けば良かったって。命を時間に委ねずに、自分で考えてできることは沢山あったんだ。凌は、結局死んだんだから一緒だって言います。十年長く生きても結局自分には何もなかった、大差ないって。でも、凌は大人になった。実際、僕より凌の方がずっと考え方は大人です。本人がどんなに虚しい人生だと感じていても、自分で道を選んで、自立していたことは変わらない。それが、僕は羨ましい」
 薄く唇を噛んで、昴くんはグラウンドで戯れる人々を見る。かんと乾いた音がし、バットに弾かれたボールが大きな放物線を描いた。後ろの方で守備に就いていた凌さんが、声を上げて走り出す。腕を伸ばし、飛んできたボールを難なくグローブでキャッチした。周りの人たちが駆け寄り、笑顔でハイタッチする。笑い声が聞こえた。昴くんも口元を緩め、かすかに笑い――けれど、その笑みはすぐに消えた。酷く寂しげで悲しい顔をし、本当に小さな、溜息のような声をぽろりと落とす。
「僕は……大人に、なりたかった」