花は灯、舟は闇路に還りゆく(18)

 なぁ。ゆっくりと開くドアに向かって、ににが促すように鳴く。ひょこっと顔を出したれんくんは、まず部屋中をぐるっと見渡した。テーブルの下からににの灰色の尻尾が伸びている。顔色を伺うようにこちらを見つめるれんくんに、わたしは慎重に声をかけた。
「おはよう、れんくん」
「……うん」
 ちら、と上目遣いにこちらを見、そしてすぐに視線をわたしの奥へと投げた。大きくて丸い目が、じっと終夜さんを見つめている。部屋に大人がたくさんいることに萎縮して、助けを求めているのが明確だ。終夜さんが立ち上がろうとした丁度同じタイミングで、れんくんの背後に皐さんの顔が覗いた。
「おはよぉ。なんや、凌も昴もいつから来てたん」
 今日も絶好調と言うように明るい色の巻き毛が揺れ、パステルカラーのメイクとワンピースがとてもよく似合っていた。自我があることを証拠付けるように、皐さんは例え死者であっても毎日見た目を綺麗にしている。細く見えるその腰のラインは、身体という殻に自分をぎゅっと詰め込んだ肉感に満ちている。
「ついさっきだよ。なんだ、駄目か?」
「ちゃうってちゃうって。うち今日行こうと思ってたんよ、あかりちゃん誘って。まだソウマ家に顔見せしてへんやろ? ほんでよ」
 拗ねたように言う凌さんに、皐さんは頭を振って返した。ちなみに、屋敷には特別な呼称が無く、一番長くいる住人の名字で区別を付けている。この家の場合は、他所では美作家と呼ばれているらしい。
 冷ましたコーヒーをゆっくりすすり、昴くんが目を上げた。
「うち、今日は来ても無人ですよ」
「えっ!? そうなん」
「ソウマさんはどこかの家に対局に行ったし、ユキさんとマドカもそれぞれ約束があるって言ってました。夜までは揃わないんじゃないかな」
 知らない名前が並び、皐さんは「なぁんや」と嘆息した。
「じゃあ明日改めていこ。凌、皆にそう言っといてや。ちゃぁんと家におるんよ」
「わかったよ。ってか、何で俺だよ」
「いつもはあんたが一番うろうろしてるやん」
「そ、そうかぁ?」
 煩わしそうにしながらも、凌さんは皐さんと話していて何となく嬉しそうだ。皐さんもふふっと笑って満足し、ひらひらと優雅に手を振った。
「じゃあうち、早い目に買い物行ってくるわ。凌も昴も、あかりちゃんのこと良くしたってよ。れん、行こ」
 終夜さんに対して名残惜しそうにするれんくんを連れて、皐さんは蝶々のように身を翻して行った。廊下の向こうに行ったのを確かめ、昴くんがこっそりとこちらに呟く。
「……わかりやすいですよね、凌って」
「ああ。気付かんのは本人くらいだろ」
「おい、聞こえてんぞ」
 頷き合う昴くんと先生を軽くねめつけ、凌さんは大きくため息をついた。ついで伸びをする。
「ま、別にどうせ暇だから、予定ある方が良いけどな。今日もこれから何にもねぇし」
 わたしもだ。日課の家事を終えてコーヒーを一杯飲み干してしまった今、わたしは再びどこまでも自由で、そして退屈になってしまった。殆ど自動的に終夜さんを見る。皆の会話のおかげだろうか。表情はほぐれ、横顔に潜んでいた影はすっかり薄れていた。伸び体勢のまましばし天井を眺めていた凌さんが、何かを決めたように「よし」と声を上げた。
「あかり、この島でまだ行って無い所あるか?」
「まだ行ってない場所をあかりさんが知ってるわけないでしょ。というか、いきなり呼び捨て」
「なんだ昴、細かいこと気にすんなって」
 皐さんとのやりとりが効いているらしく、呆れる昴くんにはははと笑って返した。確かに、わかりやすいかもしれない。急に上機嫌になった凌さんは、わたしに向き直って言った。
「どうせ暇なんだ。これから俺と昴が案内してやるよ」

「ナラカは、あの月と同じ形をしています」
 薄暗い空に浮かぶ下弦の月を指して、昴くんが言った。
「あの影の、真っ直ぐな部分を浜辺だと思って下さい。港はちょうど真ん中。そして、反対の弧の部分は全部崖です」
「崖は森に縁取られてる。熊だの猪だのが出るわけないけど、奥の森はここよりもずっと暗いし崖は結構高いから、近付かないに越したことはない。崖側で海に落ちたら、ほぼ助けに行けねーし」
 歩きながら、凌さんが付け足した。家を出て今、わたしたちは商店街や海に向かう道とは逆を歩いている。人――死者の手によって綺麗に整備された小道を囲んで生い茂る暗緑色の木々の間を、湿っぽく温い風が通り過ぎていく。ナラカに来てから初めて通る道ではあるけれど、景色は相変わらずの無彩色だった。死者の世界の色は少ない。灰色の宙にぽっかりと浮かぶ月の死骸の白が、そのことを象徴していた。太陽の暖かい光や空の青は、生きている命だけに与えられる色なのだ。
「二階の人には、会いましたか?」
 奥へと進みながら、ふと隣を歩く昴くんが口を開いた。
「二階の人?」
「あの引きこもりだよ。ここに来てから、殆どずっと部屋に閉じこもっているっていう」
 苦いものを口に入れたように、凌さんが顔をしかめる。誰のことかすぐにわかった。初日以来見ていない姿を、わたしは思い浮かべた。
「鹿城さんなら、まだ一度しか会ってないです」
 夕食も共にしない同居人は、外出することも無い反面、不思議なほどに家にいる気配も希薄だった。皐さんは彼に対して呆れたり怒ったりしていたけれど、わたしは正直に言えば彼が現れないことに少しほっとしていたりする。
 鹿城さんの目は怖い。上手く言葉には表せないが、色んな負の感情が混ざり合った淀んだ色をしているのだ。そのすぐ後ろには恐ろしい何か潜んでいて、うっかり見れば食い散らかされてしまうそうな暴力的な雰囲気がある。
「俺も前に一回話したこともあるけど、なんか苦手だな。ここには色んな死者が住んでるけど――まぁ、現世もそうだったけど。ああいう、誰彼構わず攻撃される前にするってタイプには、用心しといた方が良い。何をするかわかんねぇし」
 凌さんの言葉に、昴くんも頷いた。
「僕もそう思います。先生や終夜さんがいるから、大丈夫だとは思いますけど」
「はい――」
 頷きながら、わたしはふと海の方が気になった。家を出る時には終夜さんも一緒にいたのだが、すぐに反対方向の道へ行ってしまったのだ。今は何をしているのだろう。行き先が海なら、どのくらいの時間いるのだろうか――不意にそう考えていると、すぐ隣を歩いていた昴くんがこちらを一瞥した。
「……後で、ぐるっと回って海の方に戻ってみます?」
「そうだな。そうしよう。終夜のことだ。多分日が暮れるくらいまでは海辺にいるだろ」
「えっ」
 声が裏返った。二人はおどけた調子でにやりと笑い、続ける。
「凌もですけど、あかりさんもわかりやすいですね」
「さっきもチラチラ見てたしなぁ。今も顔に出てた」
「そんな」
 そこまで露骨だっただろうか。わたしは非難に口を尖らせながら、からかわれたことに対して嫌な気が起きないことを可笑しく思う。そして、何故だか少し哀しい気持ちもある。生前の自分にも、果たしてこういった瞬間があったのだろうか。
「あ、ほら。見えてきましたよ。あれが――“社(やしろ)”です」
 昴くんが前方を指差した。いつの間にか深くなった木々の合間に、白い建物が見える。その壁は近づけば近づくほど、きらきらと輝いているような質感を持っていた。