花は灯、舟は闇路に還りゆく(17)

「多めに作って良かった。誰かが来る気がしたんだ」
 人数分のコーヒーを淹れながら、先生はにわかに嬉しそうだ。向かいの席に着いてカップを受け取った昴くんが、興味深そうにこちらに目を向けた。
「あかりさんは、まだ空腹感感じたりするんですか?」
「少しだけ。でも、ちょっとずつ慣れてきました」
 空腹や睡眠の感覚は、ここに来た時ばかりの時よりもずっと身体に――というよりも、わたし自身に馴染んできている。食べ物が目に入ったり会話に出てきたりすれば、反射で少し空腹の感じがする程度だ。コーヒーに二つ目のクリームを入れて一口飲み、凌さんが顔を上げた。
「良かったじゃん。楽だろ? 疲れないし、飯食わなくても良いし。ずっと好きなことしてられるしな」
「凌はうろうろするか寝るかしかしてないでしょ」
「ばっか言え。色々作ったり直してやったりしてるだろ」
「作ったり?」
 聞き返すと、彼はカップを置いて得意げな顔をした。
「生前は大工だったんだ。ま、商店街行きゃ何でも手に入るけど――家の修理とか、家具とか作ったりもできるぜ。用があれば声かけてくれたら良いよ」
「有り難うございます。……あの、じゃあ、生前に習ったことも全部覚えてるんですね」
「今のところは覚えてるよ。昴も、読んだ本はだいたい覚えてるんだろ?」
「全部って訳じゃ無いけど……一通りは出して読み返しました。時間だけは、たっぷりあるので」
 言って、昴くんはカップから立つ湯気にふーっと息を吹きかけた。白い線がたなびきながら宙に漂うのを目で追い、「そうだ」と美作先生が話を切り出した。
「お前たちが知っている住人で、生前の記憶がないという症状を見たことがあるか」
「何すかそれ」
 凌さんが怪訝そうに眉をしかめる。皐さんや鹿城さんも同じ反応をしたけれど、たまたまこの家の人々が、記憶の無い死者に出会ってこなかっただけ――ということも可能性としてあるのだ。が、彼だけでなく昴くんも、少し考えるような仕草の後すぐに首を横に振った。
「知りません。そんなことがあるんですか?」
「……はい」
 小さく手を上げた。二人の視線が、同時にこちらへと向く。
「わたしです。その……記憶が無いのは」
「どういうこと?」
「自分のことだけが、わからなくて――思い出そうとしても、名前しか出てこないんです」
「記憶喪失? でも何でここで」
「それがわかれば悩むまい」
「そりゃそうだけど」
「……死因も、ですか? 死ぬ前のこととか」
 先生と凌さんのやりとりを横目に、昴くんが聞き返してきた。
「何にも。気がついたら舟の上にいて、その前にどこにいたのかも、わからなくて」
 視界にもやが掛かった感覚になるのは、あれから全く変わってない。まるで思い出すことを自分自身が拒否しているかのように、目眩がし、胸が苦しくなる。思い出すのはゆっくりでいいと言って貰えるものの、わたし自身その行為自体に嫌悪を覚えかけているのも事実だった。
「おかしいですね……」
 釈然としないという風に、昴くんが零す。
「……あー、でもさぁ」
 テーブルに降りかけた沈黙を、凌さんが破った。
「その、生前の記憶ってさ、特に死んだ時の事って、ぶっちゃけ忘れてる方が良いような気もする。なんつーか、俺は――……死んだ時のことなんか、思い出したくもないし」
 そう言いながら、表情から明るさが消えた。ぞくりとして、わたしは膝の上で左手首をぎゅっと握りしめた。終夜さんにしか知らせていない傷に、ブレスレットの冷たい感触が這う。
 そうだ。生前の記憶だけでなく、命を亡くした時の記憶もわたしには無い。終夜さんも、先生も皐さんもここにいる他の人は皆、その恐ろしい瞬間を知っているのだ。
「それは僕もだけど……死んだ時や生前のことを悔やんでここにいる人は沢山いるし、逆に僕は必要なんだと思ってた。未練って言うのかな。生前にできなかったことを、ここで終わらせて発つ人もいるよ。先生だって――」
「そうだな。俺もおそらく、あれが書き終われば発つだろう」
 昴くんの視線を受けて、美作先生はにやりと笑う。けれど、凌さんはまだ納得ができないと言うようにううんと唸った。
「……先生みたいに、生前に死ぬほど好きなことがあって、悔いがなんなのか具体的にわかれば良いけど。俺には何にも無かったしな……そりゃ棟梁みたいに大工として一人前にはなりたかったけど、今思うと一生掛けてたって程じゃ無かったと思う。俺にはこれしかないっつーより、食いっぱぐれないようにとか、職が無いのは恥だからとか、そういう理由の方が強かった。一人前になれなかったことは、未練って程ほどのことじゃない。未練に相当することが他にあるってわけでもない。空っぽだったんだ、生きてる時の俺……悔いも未練も無い人生でさ。だから正直、俺って何でここにいるんだろうって思うことは未だにある。これじゃあ、記憶があっても無くても一緒だろ」
 生前の悔い、未練――
 最初に鹿城さんが言っていたような“業”とはまた違う、別の意味で死者を縛るものだろう。少なくとも、現世で言われている死者の念は、そういったものだったと思う。
 隣に座る終夜さんを見る。二人の話に耳を傾けながら、彼の瞳はまた暗い黒に沈み込んでいた。
 ふと、その瞳がわたしの視線を汲んだ。胸のあたりがきゅっとなる。少しの瞬きの後、終夜さんは闇を誤魔化すように微笑し、テーブルの上に置かれていたれんくんのスケッチブックを開いた。青色のクレパスを手に取る。
 凌さんも昴くんも先生も、勿論わたしも、一斉にスケッチブックに注目した。声が無い故に聞き役に徹しがちの終夜さんが、自ら筆を執ったのだから。浜辺で筆談するよりもずっと読みやすい細い線で、綺麗な文字が綴られていく。
『一番大事なのは記憶じゃなくて』
『自我なんじゃないだろうか』
「自我、ですか?」
「なるほどな」
 昴くんと先生が同時に返した。周囲が手元に注目していることを確かめ、終夜さんは更に手を動かす。
『おれたちは、もう現世に戻れないことを知っている』
『のに、ここに留まって形を得ているのは』
『自我が、まだ自分自身に縋っているからだ』
『けれど、どう足掻いてももう元の自分に還ることはできない』
『ここにいるのは、生前の未練を晴らす為というより』
『自分の中に残った後悔や欺瞞、不満と向き合って、昇華させる為なんじゃないか』
『自我が自分自身を終わらせるのを、魂が待っている』
『だから記憶は、勿論重要だけれど』
『それを助けるためのツールであって、主体ではないと、おれは思う』
「後悔――」
 凌さんが呟いた。昴くんは考え込むように沈黙し、先生は頷きながらコーヒーを口に含む。後悔、欺瞞、不満――それぞれ、その単語に身に覚えがあるのだろう。終夜さんは自分の発言は終わったとばかりにスケッチブックを閉じ、もう一度わたしと目を合わせた。もの悲しいような申し訳ないような表情で、ゆっくりと俯く。
 なぁ。いつの間にか部屋に入ってきていたににが、自分の存在を示すように鳴いた。続いて、とんとんとん――と、軽い足音が廊下から聞こえてきた。れんくんだ。