花は灯、舟は闇路に還りゆく(16)

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 これは虚か実かという疑問は、いつの間にか生活の中に紛れてしまった。
 生活とはいっても、しなければいけない事など全くない。代謝が無いが故に、食事や洗濯といった日常の核に必要性がなくなってしまった。商店街で無から取り出してきたコーヒーを一口飲み、美作先生は言う。肉体的な制限が無い俺たちはどこまでも自由で、そして退屈だ、と。
 例えば、猫のように一日中気ままに過ごしても何の問題もない。先生のように部屋で書き物をしたり、皐さんのように他の屋敷に出掛けてもいい。勉強しなくても働かなくても、誰からも何も言われない。いつかこの島を発つまで、わたしたちはこのどこまでも自由で退屈な日々を強いられていくのだ。
 だから。
 わたしは敢えて、生前の日常でもしていたであろうことを日課にすることにした。
 昨日着たブラウスをぎゅっと絞る。染み出た雫は洗濯桶の水鏡を打ち、映ったわたしの顔を波紋状に歪めていく。その像が戻る前に立ち上がり、ブラウスを振ってきれいに広げ、その石鹸の匂いにほっと息をついた。簡易に作られた物干し台には、今は昨日洗ったカーテンや衣服が揺れている。
 ナラカに来て四日目。生前の自分の生活水準はわからないけれど、最低限の家事は想像以上に身体が覚えてくれていた。空の闇が引いていくのと同時に起き、日中は掃除や洗濯をする。夕方から準備を始め、夜は皆で――鹿城さんからは返事が無いけれど――形ばかりの夕食を囲むことになった。
 太陽が無い所為で時間がかかるものの、穏やかな気候の所為か意外にもしっかりと乾燥している。カーテンを取り込もうと手をかけたその時、強い風が吹き付けてきた。
「わっ!」
 視界が白く遮られる。慌てて裾を探すけれど、すっぽりと包まれてしまったせいで見つからない。手を上下させるわたしの背を、誰かの手のひらがそっと支えた。振り向く前にカーテンが剥ぎ取られ、元通りの景色が戻ってきた。
「あ……有り難うございます、終夜さん」
 救出してくれた当人――終夜さんは小さく笑って軽く頭を振り、こちらこそ、と声無く囁いた。彼はカーテンを空いた方の籠に入れ、そのまま流れるように乾燥済みの洗濯物を取り込んでいく。カーテンに玄関のマット、皐さんが干したれんくんの小さな服。わたしは竿の空いた部分に洗った衣類を干しながら、隣に並ぶ終夜さんを盗み見た。
 弱まった風に黒い木々が揺れ、彼の少し堀のある、きれいな横顔を縁取った。かりそめの身体だなんて思えないほど、その輪郭ははっきりとしている。ただ二十センチほど身長に差があるから、どうしたって見上げる形になってしまうのがもどかしい。わたしの視線に気がついたのか、不意に彼の目がこちらを見た。
「いえ――何でも無いです」
 言葉が続けられず、わたしは慌てて頭を振る。見惚れてしまっていた。羞恥を振り払うように、急いで残りの洗濯物を干し終える。あれから付けたままでいる左手首のブレスレットが、しゃらりと澄んだ音を立てた。
 ここが海辺なら筆談ができるのだけれど――と、書くものさえ無い庭にいることを残念に思う。身振り手振りでは簡単なことしか表せないし、口の動きだけでわかるのは五、六音が限界だった。終夜さんに聞きたいことは沢山あるのに、上手く会話ができない。黙り込んだわたしを見て、彼もまた気まずそうに目を伏せた。すると、
「こんにちはぁ」
 測ったようなタイミングで、玄関の方から声がした。声変わりしてすぐという雰囲気の、少し掠れた少年のものだ。聞いたことの無い声に、終夜さんを見上げる。声の主を知っているようで、彼はやんわりと微笑んでわたしに玄関へ行くように促した。
「はい……?」
 屋敷の陰から顔を出す。人影が二つ。そのうち長身な方の人物が、わたしと終夜さんに気がついて軽く手を上げた。
「お、よう終夜――と、えーっと、新しい住人?」
 二十代前半ほどの男の人だ。髪は赤茶色、目元も少しきついけれど、不思議と怖くはなかった。終夜さんが頷き、もう一人の来客――わたしより二つほど年下に見える男の子が、へぇと感嘆の声を上げる。
「若い方ですね」
「お前が言うなよ。――あー、俺らは隣の住人で……つっても結構距離があるけど。たまに遊びに来させて貰ってるんだ。俺が凌(りょう)で、こっちが昴(すばる)」
「初めまして、昴です」
「あかりです。宜しくお願いします」
 この家以外の人と話をするのは二回目だ。凌さんが言ったとおり、ナラカは民家一軒ずつに距離がある。外でよく顔を見かけても、その人がどこに住んでいるのかはわからないことが多いと皐さんも言っていた。まだ港と浜辺と商店街しか知らないが、この島はもっとずっと、想像以上に広いのだろう。
「――騒がしいと思ったら何だ、お前たちか」
 きぃと玄関が開き、美作先生が顔を出した。昴くんが胸に抱えていた本を差し出す。
「これを返しに来たんです」
「そうか、もっとゆっくり読んでも良かったのに――凌は? 皐に会いに来たのか?」
「ち、違っ……暇だっただけっすよ」
 慌てたように抗議する凌さんに、先生はふふっと意味深に笑った。扉を全部開けて、わたしたち全員を手招く。
「コーヒーでも飲んでいけ。ちょうど今淹れてるんだ。終夜とあかりちゃんも」
 家の内側から、ふんわりと良い匂いが漂ってきた。