花は灯、舟は闇路に還りゆく(15)

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 生まれ変わって、花になれるとしたら。
 光と土と水があれば、花は成長できる。根を張り芽を出し、茎と葉を伸ばし、蕾を付け、うっとりと花弁を広げる。太陽と風にのみ従い、虫に蜜を分ける代りに受粉を託し、そして静かに枯れていく。その一生を想像するだけで、私はときめきさえも覚える。
 願わくは、野の花に生まれ変わりたい。誰に見つけられなくても、綺麗と思われなくても良い。ひっそりと咲き、自然のままに命を全う出来たら――どれだけ良いだろう。
 けれど。
 けれどこの花瓶の花のように、切り花として使われたら。
 今はまだ綺麗だ。咲いたばかりのものを、花屋で見繕って貰ったのだから。ただどれだけ花瓶の水を変えても、この花は数日後には萎れてしまう。根も種も残すことなく、ただの可燃物として廃棄されていく運命なのだ。根を遺すことも、種を落とすこともできずに。
 拾った花弁を、私は屑籠の中に捨てた。
 母はまだ壁を見つめている。あるはずもない水平線をあると言い張り、嬉しそうに笑顔を浮かべている。けれど、その目に私は映らない。
 花から意識を移し、私は、いつまでこうしているのだろう――と考えた。
 こう、というのは、母が壁に海を見ていることではない。母がこの精神病棟と福祉施設の間を絶え間なく往復し、一緒に暮らすこともできないという現状についてだ。
 母は、私が生まれた頃から心を壊している。昔は祖父母の家で一緒に暮らしていたけれど、小学校に入る頃には今のような状態になっていた。母に会いたくても会えず、会っても私を認知してくれることはない。一方の祖父母は、私が高校に上がると同時に小さなアパートの一室を用意し、一人暮らしをするように命じた。家賃だけは負担する。でも学費・生活費はアルバイトと奨学金で賄えと言い放たれ、他に行くところも無い私はそれに従っている。中卒では就職が難しいという理由で一応高校へは通わせて貰っているが、卒業したら完全に絶縁になるだろう。母がいたから仕方なく飼っていたが、本当は私の顔など見たくも無いのだ。あの時に死んでいれば、どれだけ良かったかと、後々親類たちに祖母が小声で話しているのを聞いたことがある。
 わかっていた。それは誰かに教えられたというわけではなく、ごく自然に感知したことだった。自分自身のことがわからないという時期を、私はとっくに過ぎている。その場の空気や周囲の目で、私は自分と自分以外の境界を他の誰よりもはっきりと区別ができるようになっていた。私は決して望まれた存在ではなく、ましてや生まれ、そしてこの年まで生き長らえて良いようなものではなかったのだ。
 死ぬべきだったのだ、と思う。
 祖母が言う、あの時に。
 目を閉じる。深く息を吐き、私は無意識に、自分の左手首を握っていた。すると、
「――わっ、」
 突然、温かく柔らかな感覚が私に触れた。そして、そのままそっと肩を包み込んで来る。気が付くと、私は母に前から抱きしめられていた。頬に母の髪が当たり、回された腕にはほんのりと力がある。
「お母さん……どうしたの?」
 母の表情は見えないが、困惑しながらも私は素直に嬉しかった。母から触れてくれることすら、記憶にない程久しぶりのことだったから。同じ部屋の中にいていくら話しかけても、私のことなど目にも留めなかった母が、こうして抱きしめてくれるなんて。母の腕と胸は温かく柔らかく、まるで小さい頃に戻ったような微睡を覚えた。
「――……お母さん……」
 一瞬前は死を想っていたことなど、母の温度の中へとすぐに溶け去って行った。心地良い。母の意図はわからないけれど、この時間がずっと続けば良いのにと思った――その時。
 私の肩に鼻を埋めた母が、無感情な声で囁いた。

「けもののにおいがする」

 気が付いた時には、私は母を突き飛ばしていた。力が無いから母は軽くよろけただけだったが、顔にかかった髪の隙間から、じっと私を見つめている。どっどっと胸が痛い程強く打ち、唾さえ上手く呑み込めなかった。
「ご……ごめん、私、バイトに行かなくちゃ。帰るね」
 早口でそう言い切り、私は母の反応も見ずに病室を飛び出した。手のひらと背中に汗が浮き、強い動悸は収まることを知らない。
 けもののにおい。
 母の冷たい声が耳の奥にこだまする。むせ返る生臭い匂いと、貫くような痛みの記憶も蘇ってきた。例え目には留めなくとも、母はみんな知っているのだ。私が私のことをどう思っていて、見えない所で何をしていて、これからどうしたくて、何に迷っているのかも。何でもないような顔をして見舞いに来ても――だ。
 ロビーを横切り、病院の外へと走り出る。病室の窓から母がまだこちらを見ているような気がして、振り向くことはできなかった。