花は灯、舟は闇路に還りゆく(14)

 赤――これは、生の色だ。
「あ……」
 終夜さんの指が、その色をなぞっていく。触れられた部分だけがやけに敏感で、快とも不快とも取れるものが滲んではすっと消えていった。けれどいくら触れても変わらない。赤線はうっすらと通る青い血管を断つように並び、生前の行為をまざまざと見せつける。
「終夜さん、わたし、もしかして、自――」
 彼の人差し指が、わたしの唇を塞いだ。偽の心臓がどきりと跳ねる。指を離し、終夜さんは足元に落ちたままだった小石を手に取った。
『記憶が戻らないうちは、保留にしておいた方が良い』
「でも」
 わたしが納得できない間にも、終夜さんは更に言葉を記す。
『新しい傷でも、できたばかりのものじゃない』
『きみがこの傷で自分を死なせたのなら』
『もっと生々しく残っているはずだ』
 広い手が、そっとわたしの髪を撫でた。
 だいじょうぶ。
 筆談ではなく、わたしの目を見て、終夜さんは声無く言う。手のひらは優しくて、まるで世界で一番大事なもののようにわたしを扱った。
 彼もわかった上で言ってくれているのだろう。これがもしためらい傷だったとしても、生前のわたしが、少なくともこの傷の数だけ死のうと考えていたということを。彼の言うように直接の死因ではなくとも、それは紛れもないことだった。
 あるはずのない心臓が、押し潰されるようにぎゅっと痛くなる。手首の傷へのショックがそれほど強かったのか、それとも別の何かがそうさせたのか、わたしは再び子供みたいな嗚咽を漏らした。終夜さんの手が頭から背中に落ち、思わぬ力に引き寄せられる。
 涙が出そうで出ないのが辛い。募るだけ募って処理されない不安と悲哀に窒息しそうで、その所為で余計に喉だけが引きつっていく。気恥ずかしさや戸惑いは声と共に抜けて行き、わたしは夢中で終夜さんの胸に縋りついた。
 わたしはわたしで在りたかったのに、生前のわたしはわたしを死にたくなるほど嫌っていた。その事実がただ悲しい。それでも頭や背中を撫でる終夜さんの手は、わたし自身の形が今確かにここにあることを教えてくれる。応えるように強く彼のシャツを掴んだ。彼を頼りにしなければならないほど、自分が今にも消えていきそうに思えた。
「……有難うございます」
 どれくらい経っただろう。嗚咽が凪ぐのを待って、わたしは終夜さんから体を離す。先ほどとは打って変わった緩やかな風が、わたしの髪を揺らして吹き抜けた。風に乗れなかったひなげしの花弁が、波打ち際でまだ弱々しい光を放っている。何でもないように頭を振り、彼は立ち上がった。こちらに手を差し伸べ、そしてゆっくりと口だけで囁く。
 帰ろう、と。


 終夜さんは元来た近道では無く、港と商店街を通って帰る道を選んだ。
 大きな手に引かれながら、遠回りの道のりをゆっくりと歩く。港にはもう人は残っておらず、皐さんとれんくんの姿も見当たらなかった。反対に商店街にはまだ明りがついていて、人もちらほら残っている。
 朝に手鏡を出した雑貨屋さんの前で、終夜さんは唐突に立ち止まった。少し待っていてという仕草を残し、店内に消えていく。ほどなくして、彼は大事そうに何かを持って帰って来た。
「それは?」
 答える代りに、終夜さんは再度わたしの左手を取った。手のひらにあったそれを、くるりと器用に手首に巻きつける。
「これ……貰って良いんですか?」
 彼は頷く。それは、白い花のビーズが連なったブラスレットだった。少し緊張した面持ちで、手首の傷がある位置にブレスを合わせてくれる。どうかな。似合うだろうか。これで目立たなくなれば良いのだけれど。声は無くとも、沢山の言葉が表情から聞こえてきた。
 その様子が可愛くて、思わず顔が緩んだ。わたしが笑ったのを見て、終夜さんもほっとしたように微笑む。赤い傷を隠したブレスの花は灯りに照らされ、船を見送るひなげしのようにきらきらと光った。
 過去の自分が何を思い、何故命が途絶えたのかはわからない。けれど。
 終夜さんの手を再び取る。彼の手のひらが、わたしの手のひらを形作っていく。死んでも尚、ここでこうしてわたしが在ることは、とてつもない奇跡であるように感じた。いや――きっと、紛れもない奇跡なのだろう。
 商店街の向こうにも、街灯の小さな光が灯っている。海の向こうへ続く闇では無く、わたしたちの家へと続く闇の中を、二人並んで再び歩き出した。