花は灯、舟は闇路に還りゆく(13)

 浜辺の砂は、少し変わっていた。
 踏みしめる度に、きゅ、きゅ、と微かな音がする。思い切ってローファーと靴下を脱ぎ、冷たくも温かくも無いそこに足を埋めてみた。きゅう、と硝子を擦るような澄んだ鳴き声に、ふふふと笑みがこぼれる。
 久しぶりに笑ったような気がした。波はすぐ傍まで寄せては返し、夜が近付くにつれ空は徐々に藍色に変わってきている。月だけが白い輪郭をくっきりと映えさせていて、そのおかげだろうか、辺りはまだぼんやりと明るい。ひとしきり砂を鳴らせて振り向けば、背後でこちらを眺めていた終夜さんと目が合った。彼は穏やかに微笑んでくれたが、わたしは恥ずかしくなって少し目を伏せる。
 港に行ってしまったけれど、家を出てからつい先程までは皐さんとれんくんも一緒にいた。れんくんを抱き上げて行く際に「ほな、頑張って」と皐さんが目配せをくれたものの、どう頑張っていいのかわからない。むしろ意識して、変に緊張してしまう。
 けれどそんなわたしの心境など露知らず、終夜さんはちょうど二人分座れそうな岩に座るよう促してくれた。わたしは裸足のまま、彼と並んで腰かける。石畳の道へと向かう勾配を覆う植物は、岩の傍まで領域を広げていた。
 細い茎と葉は、柔らかそうな生毛に覆われている。ぷっくりとした蕾は釣鐘状に首をもたげて俯いていて、憂鬱気にも眠っているようにも見えた。浜辺に沿って無数に生い茂るそれらは、風に揺らされてしゃらしゃらと鳴り、それに応えるようにざざんと海が鳴る。無彩色で静かな風景の中で、海や砂や花だけがお喋りだった。
「この蕾、見たことあります」
『ひなげしに似ているね』
 長身を屈め、終夜さんは先の尖った小石で砂上に字を書いた。
『ナラカには植物はたくさんあるけれど』
『花はこれしか無いみたいだ』
 紙の上よりも見えにくいからか、ゆっくり丁寧に小石を動かした。まだ完全に暗くなっていないから、その文字は十分読むことができる。
「終夜さんは、ここに来てどのくらい経つんですか?」
 わたしの問いに、彼は少しの間だけ手を止めた。
『忘れてしまった』
『でも今いる中では、先生の次だ』
『先生が毎日日記を書いているから』
『調べたらわかるかもしれない』
 終夜さんは黙ったまま、けれど砂の上では饒舌だ。小石の動きに合わせ、砂がきゅうきゅうと可愛い鳴き声を立てる。
『自分ではもうわからないくらい、時が経ってしまった』
『何人も迎えて、見送ってきた』
 書く手を止め、ふっと寂しげな自嘲をする。文字を一度全て消し、新たに言葉を書き始めた。
『記憶はどう? 変わらない?』
「はい……」
『さすがに、一日くらいでは戻らないかな』
 終夜さんは少し残念そうな顔をした。再度字を消し、続ける。
『昨日鹿城が言っていたことは、気にしなくても良い』
『きみの記憶と、業が関係あるかどうかなんて』
『ここにいる誰にも証明できないのだから』
 気を遣ってくれているのだと、すぐにわかった。
 わたしに記憶が無いのは、生前に犯した罪の所為ではない。だから不安になることはないと、終夜さんは言ってくれているのだ。
 けれど――とわたしは思う。それなら、貴方はどうなるの?
 逆を言えば、関係が無いという証明も出来ない。わたしと終夜さんを比べて、鹿城さんは言った。お前より業の深そうな奴が来たぞ、と。終夜さんの特異なこと、つまり声が無いことは、生前のことと関わっている。汚いと罵られるような亡くなり方をして、そしてここでは声が無い。想像だけれど、だからこそあんな風に、美作さんは鹿城さんを制したのだろう。声や記憶、ここで何かが欠けていることと、生前や死に方には因果があるとしか、わたしには考えられなかった。
 終夜さんの表情からは、いつの間にか穏やかさが零れ落ちていた。昨日も見せたような憂鬱さが影をちらつき、暗い瞳は砂上に迷う。まるで、失くした声を探しているように。何を想っているのだろう。自分のことと同じくらい、わたしは彼のことをもっと知りたかった。けれど、
「終夜さんは――」
 言いかけたものの、問いはそれ以上続かない。押し黙ることしかできない彼の横顔と、伏せられた深淵のような目が、まだここには踏み込むべきでは無いとわたしに告げている。
「……生前は、何をされていたんですか。ええと、お仕事とか」
 結局、当たり障りのないことを聞いてしまった。終夜さんは穏やかな表情を引き戻し、また砂を鳴らして字を書き始める。
『医者になろうとしていた』
「お医者さんに?」
 似合いそうだ。彼は照れくさそうにはにかみ、頷く。
『子供が好きで、小児科医を目指していた』
『なれる前に、ここに来てしまったけれど』
『人の助けになりたかった』
 そこまで書いて、小石の先は宙を彷徨う。
 からんからん――機を測ったように、朝と同じ鐘の音が空に響いた。終夜さんは小石を置き、そろそろだと言うように顔を上げる。水平線から迫りきていた闇は、いつの間にか空の半分以上を埋め尽くしていた。浜辺の弧をなぞって港を見れば、人が集まったのか船着き場には転々と明りが付いている。皐さんとれんくんも、あの輪の中にいるのだろう。
 闇は深まり、月は静かにその時を待つ。朝に見た白い船が、ゆっくり港から離れだした。フォォォン――と長い汽笛が鳴る。すると、まるでその音で目が覚めたかのように――俯いていた蕾たちが、一斉に空を仰いだ。
「わぁ……!」
 堅く結ばれていた蕾がほどけ、ふんわりとした白いひなげしの花が開いていく。早送りさながらの速度で咲いていく幾千の蕾。それだけでも不思議なことなのだけれど、ここで終わりでは無かった。白い花たちは完全に開いたものから順に、大きな花弁を蛍のように発光させ始めたのだ。月よりも強い光が、砂浜と海を煌々と照らしだした。
「終夜さん、これは――」
 わたしの問いは、突如嵐の如く吹き出した風に掻き消された。ひなげしたちはしゃらしゃららと謡いだす。花弁が次々に千切れ、すっかり闇に包まれた空に大きく飛び上がっていった。
 幾千の花弁が海上に舞う。けれど水面に着地せず、光を灯したまま、何度かの上昇を繰り返して風に乗る。まるで意思があるかのように、膨大な数の花弁が瞬く間に海へと飛んでいった。闇へと向かう船を追い、包み込み、花弁たちはやっとその軌道に沿って着水する。漆黒の海面にできた光の澪は途切れることなく、闇を進む船の位置をわたしたちに教えた。
「綺麗……」
 隣で終夜さんが頷く。こんな光景は、おそらく現世でだって見たことも無い。光は船の位置を告げる灯になり、真っ直ぐな水平線の上に長くその後を残した。あの向こうには何があるのだろう。皐さんが海に投げかけていた問いを、わたしもまた投げかけるけれど、やはり答えは返って来ない。遠ざかる花の灯火を見つめながら、感覚と意識だけを持って、わたしたちはここに立ち尽くすしかなかった。ここからは先も見えず、戻ることも出来ないのだから。
――そうだ、もう戻れないのだ。わたしは。
 水平線の上で闇が揺れる。船と花弁を飲み込んで、先の見えない闇はすぐそこまで迫って来ていた。たとえ生前のことを思い出そうとも、わたしは戻れない。一度散った花が咲けないように。光の群が波に揺られ、散り散りになるように。わたしはもう、生きていた頃には、どう足掻いたって帰ることはできないのだ。
 わたしの中で溢れた感情は、闇に引きずられて喉を越え、堰を切って一気に頭にまで上がってきた。口から嗚咽が漏れる。死んでしまった。わたしは死んでしまったのだ。ここに来てから今まで幾度となく口にし、反面どこか真実味が無かった事柄。それが、やっとはっきりとした形を持って溢れ出て来た。
 怖い。寂しい。悲しい。この身体はハリボテで、ただ生きていた時の記憶の塊なだけなのだ。自分自身を触っても、鏡の中の自分を見ても、本当のわたしはもういない。どうして死んでしまったの。どうして違うわたしになってしまったの。これからどこへ行くの。何になるの。わからない。
 吹き上げる風に乗り、しゃららと花が揺れた。この花は何の為に咲くのだろう。祝福? それとも、慰め? もう戻ることも出来ず、その上行く先も闇に閉ざされているのに。生前の業を持ってここに来ると説いた鹿城さんを、あの船に乗る女性におめでとうと言い、それでも悲しそうにしていた皐さんを思う。あの先にあるのは天国だろうか、地獄だろうか。それとも現世なのだろうか。もし現世であっても、わたしが元いた居場所には決して帰ることは無いと、死者としての本能が強くわたしに告げていた。それでも、わたしは確かに――
 わたしは、私で在りたかった。
「……すみません」
 いきなり俯いたわたしの肩を、終夜さんがそっと撫でてくれていた。とめどない感情が物質となって溢れ出す感覚に、不意に両手で目を覆う。けれど意に反して、そこは全く濡れてはいなかった。わたしは困惑しかけ、すぐに理を得て苦笑する。
「そっか……わたしたちには、涙って、無いんですね」
 この身体には代謝が無い。食事も必要無く、汗もかかない。だから、感情に合わせて目元が濡れる必要も無かった。いくら自分の死を嘆いても、この身体ではそれを表すことはできない。ただ単に涙が出ている感覚だけが残り、わたしは左手で目元を擦る。そして、そこにこの身体らしくない色を見つけた。
「え――?」
 気付かなかった。
 ここに来てから一日以上経つのに、何故それに気が付かなかったのだろう。
 ぞっと肩が強張る。今のこの身体はハリボテだから、感覚的な痛みはあっても怪我をすることは無いと美作さんが言っていた。だからきっと現世から――わたしが生きていた時から、これはここにあったのだろう。そしてこれが意味する事柄が、あたかも空を侵食する闇のようにわたしの意識の中に押し寄せてきた。
 わたしは私で在りたかった、はずなのに。
「終夜さん、わたし……」
 震える声を絞り出す。光を灯した花弁が、ひらりと目の前を過ぎた。船は闇に紛れていくのに、見送ることも出来ず、わたしはただずっとそれを見つめ続けた。
 左の手首、何重にもつけられた一文字。その、鮮やかなほど赤い傷を。