花は灯、舟は闇路に還りゆく(12)

 ちょっと遠回りしよか、と、皐さんは言った。
 帰路とは別の方向に商店街を抜け、ただ黙々と歩く。石畳の道は街の風景を海へと変え、やがてわたしが船で最初に来た港へと辿りついた。潮騒の調子は昨日とは寸分も違わず、風に乗った海の匂いが鼻孔を掠める。前方に見える船着き場では、わたしが乗って来たものかどうかはわからないが、大きくも小さくも無い白い船が一隻、波の上でゆらめいていた。先ほど会った彼女は、あの船に乗って闇の彼方へと渡って行くのだろう。
「……びっくりしたやろ? さっき。発つ人は、皆ああいう風になるん」
 夜を待つ船を横目に見ながら、皐さんはやっと口を開いた。
「鹿城やセンセは、この身体のことようハリボテって言うけど、うちはあんまりそう思わんの。食べる必要なくても、汗かかんでも、身体は目に見えて、触れるやん? 鏡見たら、ちゃんと生きとった時のままのうちがおる。死んでも、うちはうちやなって思うし、良かったって、なんか安心する。でも、発つ人がああやって消えそうなの見ると……」
 ざざ、と海の鳴き声が響く。皐さんの声は、その微かな音にさえも掻き消されそうだった。
「ああ、うちらって、もう自分やないんやな……って」
 彩度の低い空と、抜け殻の下弦の月。ゆっくりと歩いていたのに、いつの間にか港は過ぎ去り、海沿いの風景は浜辺に成り代わっていた。鉛色の海は先ほどよりもずっと近づいていて、漣の音がはっきりと耳にこだまする。石畳にむす黒ずんだ苔を踏み、両脚には潮風が絡みついた。この風は、どこから吹いてくるのだろう。現世だろうか。それとも――
「あの向こうには、何があるんやろうな」
 真っ直ぐな水平線に横たわる闇に、皐さんは呟いた。わたしは何も言えず――いや、たとえわたし以外の人でも、この問いの答えなど出せはしないだろう。
「あ、終夜や」
「え?」
 道から浜辺に至る緩やかな勾配に、わたしは目を向ける。そこには薄緑色の植物が、まるで絨毯のように広く群生していた。浜辺を縁取りながら続く葉は海に近付くほど解け、皐さんの言った通り、波打ち際に佇む終夜さんの広い背中が見えた。
「海が好きなんよ、終夜は。家におらんなって思ったら、大体ここに来てん」
 来ては返る波を足元で遊ばせながら、彼もまたじっと海を眺めていた。朝家を出てから、ずっとここにいたのだろうか。
「……優しそうな方ですよね、終夜さん」
「そうやなぁ。れんも、うちより終夜に懐いとるし。ずるいわぁほんま」
 潮騒が途切れず繰り返される中、終夜さんはただじっと海面を見渡していた。
 ざざ、
 ざざ――
 終夜さん、何を探しているの?
「おーい、あかりちゃん」
「あっ……え、ええと」
 皐さんに肩をつつかれ、わたしは我に返る。歩を止めてまで、彼に見入っていたのだ。
「気になるん? 終夜のこと」
「そ、そんな」
 あるはずのない血液が集まる感覚が、頬に灯る。図星だった。けれどこれは、皐さんが考えている気持ちとは少し違うような気がする。生前の自分に経験があったかはわからないが、これは本当にその感情だと言い切って良いものなのだろうか。
「ふふふ。ええよええよ、うちそういう話好き」
「そういうのじゃ……それにわたしたち、もう……その、生きていないし」
「まぁね。確かに、うちらもう繁殖する必要ないからか、セックスはできんらしいけど」
「せっ、」
「でも結婚みたいなことはする人もいるってセンセも言うてたし、好きになるんはアカンことでもないと思うよ。むしろ、うちは良いと思う。――終夜!」
 皐さんの呼び声に、終夜さんはすぐにこちらを見つけた。朝にも見た穏やかな表情に、わたしは無性にほっとする。足元の植物を踏んでしまわないよう避けながら、終夜さんはゆっくりとここまで上がってきた。どうしたの? と口元が動く。
「商店街行ってたん。あかりちゃんのいるもん、まとめて出してきたの」
 わたしの荷物見て、終夜さんが手を差し出してきた。持っていた荷物を、彼の大きな手が引き取ってくれる。
「あ――有難うございます」
 何となく気恥ずかしくて、彼もまともに見上げられない。皐さんが、にんまりと猫みたいに微笑んで続ける。
「せや終夜。今朝、鐘が鳴ってたやろ。あれ、マイちゃんらしいの」
 終夜さんは少し驚き、そう、と神妙に口だけで呟いた。
「うちもびっくりした。ほんでさ、夜にあかりちゃんとここに来てみたらどうやろ。あれ、一度は見といた方が良いやろ」
 皐さんの提案を受け、終夜さんが頷く。けれど反対に、わたしは首を傾げた。港に見送りに行くのではないのだろうか。
「……ここで、何かあるんですか?」
「ふふ。それはな、見てからのお楽しみや」
 終夜さんに目配せし、皐さんは悪戯っぽく笑った。ちょうど強い潮風が吹き、浜辺の植物がしゃらしゃらと鈴のような澄んだ音を立たせる。そこで初めて、わたしはその植物に無数の蕾があることに気が付いた。