花は灯、舟は闇路に還りゆく(11)

 家を出てからしばらく経ち、殺風景だった景色にも徐々に建物が加わってきた。
 一軒ずつぽつりぽつりと建っていた白い家が、きれいに連なって見える。空は相変わらず褪せているけれど、昨日ここに来たばかりの時よりも明るく見えた。これがこの世界での朝なのだ。道行く人とも幾度かすれ違い、その全員と挨拶を交わした。ここでは、住んでいる人皆が顔見知りなのだろう。わたしを見て「新しい子?」と尋ねて来る人までいたほどだった。
「皆さん、わたしが来たことを知ってるんですね」
「せやなぁ。港に船が入るのって誰かが来る時か発つ時しかないし、皆暇しとるし。鹿城みたいに引き籠っとらん限り、次の日の朝には殆ど全員に行き渡るん。――せや、商店街の仕組みとか、センセから詳しく聞いとる?」
「いえ……何でも手に入る、としか」
「そうそう、欲しいな〜って思い浮かべたもんが、そのまんま店に出て来るん。信じられへんやろ?」
「そうですね……想像できません」
 並んで歩きながら、わたしは首を傾げる。店に並んでいる品物の中から欲しいものを選ぶ、ということならわかるけれど。
「あっはは。うちも最初に来た時はそうやったけど、すぐに慣れると思うで。ほら、見えてきた」
 下り坂の先、白い建物が密になり始めているあたりの通りに、ささやかなアーチがあった。その向こうはこれまでに見た住宅とは装いが全く違い、商店街という言葉のイメージ通り、複数の店が道沿いに並んでいる。わたしたちと同じように買い物中のお客さんも少なくなく、殺風景だった町並みが俄かに明るくなったような気がした。
「商店街言うほど店の数は無いんよ。あそこが食べもんのお店、あと雑貨と服と、次はなんやっけ。センセがよく行く、本屋さんもあるな。あと、レストランも」
 皐さんが言った通り、店の数はぱっと見ただけでも十軒ほどだ。一番手前の食べ物屋さんに足を伸ばしてみた。けれど、店内には棚があるだけだ。売り場の面積は特別狭いというわけでは無いのに、品物と言えるものは影も形もない。
「頭ん中で思い浮かべるん。うちはそやな、れんが好きやで、林檎が欲しい。林檎林檎……っと」
 ごとん、と背後で音がした。見れば、真っ赤に熟した林檎が棚の上に転がっている。
「え――」
「ほら、あったあった。こんな感じ。お金は元々無いし、このまんま貰って行ったらええの」
 林檎を手に取り、皐さんはわたしにもそれを触らせてくれた。艶があり、けれどごつごつしたいびつな表面。それは、限りなく本物の林檎だった。
「あかりちゃんもやってみて。雑貨屋さんの方がええかな。こっちこっち」
 皐さんはわたしの手を引いて一度外に出て、斜め向かいのお店に招いた。品物を抱えたお客さんとすれ違ったものの、こちらの店にも棚の上には何もない。棚の上で丸くなった大きな茶虎の猫が、細く開けた目でちらりとこちらの様子を伺う。船守ならぬ家守ならぬ、店守の猫だ。少なくとも殺風景に見える棚の間を行きながら、わたしは皐さんから言われたとおりに、今欲しいものを頭に思い描いてみた。
 ころん、と音がする。振り返れば、そこには小さな手鏡が置かれていた。
「ふふ、可愛い鏡。使ってたんかもね」
 鏡は手のひらに乗るコンパクト型で、桜色の表面はつやつやとしている。皐さんの呟きでそう思ったのか、実際にそうだったのかはわからない。けれどわたし自身も、この鏡には見覚えがあるような気がした。蓋を開けてみれば、小さく曇りの無い鏡の中で、他の誰でもないわたしがじっとわたしを見つめている。
 雑貨屋で日用品を数点揃え、次はその隣の服屋に向かった。わたしたちには発汗が無いから、今のままの服装でいても何ら問題は無いらしい。けれど、「やっぱ着替えたいやん?」と皐さんは苦笑した。形や色の違うスカートとブラウス、下着を少しずつ出し、最後に紙袋を出して荷物を一つにする。外に出、他の店やまばらに行き交う人々を眺めて歩いていると、皐さんが囁くように話し出した。
「うちな、生きとる時はずっと貧乏で。お金持ちになって、欲しいもの何でも手に入ったらええなって思ってた。服とかアクセサリーとか、化粧品とか。綺麗な格好して、美味しいもの食べて、どこにでも行けて遊んで暮らせたら、ほんまええやろなって。でもな、何でも手に入るようになると、必要なものって意外と少ないんやなぁって思う。ここでもほら、意外と要らへんやろ?」
 わたしが小さくまとめた荷物を見て、皐さんは笑う。けれどすぐに笑みを消し、寂しげに続けた。
「それに……ほんまに一番欲しいものほど、手に入らへんのよね。現世でもここでも、それは同じやった」
 ゆっくりと歩を進めながら、わたしは自分の足元を見る。太陽が無く、空も褪せている所為か――それとも身体がハリボテだからか、この世界には何もかもに影が無い。古い石造りの道を、わたしはぎゅっと踏みしめた。
 わたし達には住むところがある。触れられる身体があるし、欲しいものは何でも手に入る。なのに、決定的に足りないものがある。食事をせずとも飢えの無い身体なのに、ここにいる皐さんも、そして終夜さんも、美作さんや鹿城さん、れんくんさえも――そして、おそらくこの島に住む全ての人も――ちょうどわたしに生前の記憶が無いのと同じに、何かが足らず、そしてそれがわからずに、必死で喘いでいるように思えた。死と存在の間にある緩やかな矛盾の上を、この島は浮遊している。
「おーい! 皐ちゃん!」
 背後で女の人の声が上がった。皐さんは一瞬で顔を明るくし、わたしの襟をとんとんとつつく。
「近所に住んでる子や。マイちゃーん! ……って――」
 わたしも振り返り、声を掛けて来たらしい彼女の様子に驚いた。皐さんを見てにこにこ笑っている二十歳程の彼女の身体が、服装ごとうっすらと透けているのだ。
「どないしたん、マイちゃん……もしかして今日?」
 皐さんの声が少し震える。彼女が頷くと、その輪郭が金色に瞬いた。
「うん。今日の夜に、発つことになったの」
「ほんまに? ――おめでとう」
 皐さんが、彼女の手を取る。金色の光が波打ち、紙に落ちた絵の具のように実体が少し滲む。発つということは、彼女は今日この島を去って行くのだろう。
「ありがとう。皐ちゃんが仲良くしてくれて、楽しかった」
「あはは。そんな……うちもよ。マイちゃんがおらんようになるって、なんか寂しいな」
「私も。短い間だったけど、皆良くしてくれたから……」
 こわい。光は柔らかいのに、わたしは何故かその色が揺れる度に、眩暈にも似た恐怖を覚えた。不安、と言った方が近いだろうか。皐さんの背中に身を隠していたわたしに気付き、彼女が優しく微笑む。
「もしかして、昨日来た子?」
「そう。あかりちゃんって言うん」
「こんにちは……」
 初めましてと言うのも変な気がして、わたしはただ会釈をした。
「こんにちは。入れ違いになっちゃったけど、ゆっくりしていってね。皐ちゃんもいるし、ここは良い所だから」
 背後の景色が見えそうなほど、彼女の身体は透けている。すぐにでも消えてなくなりそうで、皐さんもそれ以上は彼女に触れない。
「マイちゃん、うち夜港行くさかい。待っててな」
「うん。来て」
 彼女に宿った光が、水面のように揺れる。その表情は、泣き笑いそのものだった。