花は灯、舟は闇路に還りゆく(10)

 制服に着替えて台所に向かうと、テーブルでは美作さんが本を広げていた。
「おはようございます」
 今度はわたしから挨拶する。じっと文字に集中していた美作さんは、たった今初めて気が付いた様子で顔を上げた。
「――おはよう。昨日はよく休めたかな?」
「はい。コーヒーですか?」
 テーブルに置かれた年季の入ったコーヒーメーカーが、湯気を立てて黒い液体をサーバーに落としている。昨日皐さんが作ってくれたカレーと同じように、おそらく現世と変わらない、殆ど本物のコーヒーだ。
「ああ。多めに作ってしまったんだ。飲むかい?」
「頂きます」
 美作さんは二人分のカップを棚から取り、慣れた手つきで丁寧に注いでくれた。香ばしいコーヒーの香りが、静かな空気の中に充満していく。再び本を開き、美作さんが独りごちるように呟いた。
「昔から、朝にコーヒーを飲むのが日課だった。死んでから食事自体はたまにしか摂らなくなったが、これだけは欠かせなくてな。身体が欲しがっているようでね……生前に戻ったような気になるんだ」
 わたしも飲んでみる。コーヒーは熱く、深い苦みが喉元をすっと流れて体に消えた。
「美味しいです」
「そうか。それは良かった」
 文字に降ろしていた視線を浮かせ、美作さんはにっと含みのある笑みを作った。彼が昨日語った、この世界の物と記憶。ハリボテの身体が今持つ感覚は、生前の記憶が元になっているのかもしれないということ。香りと味を舌の上に広げながら、わたしは考える。これはこのコーヒーそのものの味なのだろうか。それとも、わたしの記憶が作り出している味なのか。
 なあ。
 廊下から、ににの鳴き声が聞こえた。かりかりという軽い足音が近付いてきて、器用にドアを開ける。更にその後ろには、小さな人影が追いかけて来ていた。
「にに、まって」
 れんくんだ。当のにには、なぁと答えながらもその小さな手をすり抜ける。テーブルの下にやってきたと思ったら、わたしの膝に飛び乗ってきた。ににの毛並みはさらさらとしていて、撫で心地はとても良い。ににの方も目を細め、喉がごろごろ鳴らしている。温かく、生きている猫とまるで変わらない。
「にに」
 まだわたしに慣れていないれんくんが、少し拗ねたような顔をした。尻尾を別の生き物のように動かして、なぁ、と今度はににかられんくんを呼ぶ。
「れんくん?」
 できるだけ優しく呼んでみる。れんくんはじっとわたしとににを見比べ、その場に座り込んだ。警戒と戸惑い、そしてこちらの顔色を伺っているような様子が入り混じった、歳の割にとても複雑な表情をしている。身体も小さく、もしかしたら三歳にも満たないかもしれない。
 なぁ。にには私の膝から飛び降りて、じっとこちらを伺うれんくんに身体を擦りつけに行った。まるで人間のように、慰めているふうに見える。
 そういえば、昨日会った船守の猫も人間然とした――いかにもわたしの様子を汲んだ鳴き方をしていた。そしてこの島には、人間の他には猫しかいないように思う。海には魚の影も無かったし、鳥の鳴き声すらも聞こえない。死後の魂が留まるというのなら、もっといろいろな動物がいても良いのに。
「猫が死後の旅の共をするというのは、北欧の伝承だっただろうか」
 美作さんの声に、わたしは顔を上げる。
「あかりちゃんも気付いていると思うが、この島に来るのはどうやら人間と猫しかいないらしい。生前に飼っていた犬が俺より先に大往生してしまったが、ここでは会うことができなさそうだ」
 冗談めかして、けれど少し残念そうに肩を竦めて見せた。カップの黒い水面に映る自分の顔に視線を戻し、わたしはたくさんある疑問の一つをこぼした。
「ここに来る人……魂、には、条件があるんでしょうか」
「あるのかもしれない。それは、俺もよく思っているんだ。そもそも死んだ魂の全部がここに来ていれば、屋敷の数などこの程度では済まない。このナラカの外にも、同じように死者の集う場所が別にある……と考えるのが妥当だと言える。ここが猫の死後世界でもあるように、犬には犬の死後世界があるのだろう」
 それに、と、美作さんは少し愉快そうに続ける。
「興味深いことに、ここには――」
「れん!」
 廊下から、甲高い声がした。皐さんが勢いよくドアを開け、ににとじゃれ合っていたれんくんを見つける。
「ここに来てたんか。気付いたらおらへんで……びっくりしたでほんま」
「びっくりしたのはこちらだ」
 話の腰を折られた美作さんが、溜息交じりにコーヒーをすすった。
「おはようございます」
「あ、あかりちゃんおはよ! どう? 疲れてへん?」
「大丈夫です。どこか行かれるんですか?」
 よそ行きのようなお洒落な服を着ていた。レースの刺繍が入った紺色のワンピースで、ほっそりした皐さんによく似合っている。
「ふふ、商店街に買い出し。あかりちゃんも一緒に行くんやで」
「わたしも?」
 欲しいものは何でも手に入る――とは、昨日この家に来た時に聞いたことだ。そして、まさしくその話をしていた美作さんも続けた。
「行ってくると良い。ここの物品は、本人が行かなければ意味が無いからな」
「そそ。自分のもんは、自分じゃないと買えへんのよ。れんも行く?」
 ににを追いかけていたれんくんが、呼ばれたことに驚いて動きを止めた。神妙に皐さんとわたしを見比べ、きゅっと身を縮める。行かないらしい。代わりに、なあとににが鳴いた。
「じゃあ、おじいちゃんとににとお留守番やな」
「誰がおじいちゃんだ」
「だって、そのくらい歳離れとるやん。面倒見たってな」
「仕方ないな……」
 呆れつつ満更でもない美作さんに、皐さんがふふふと笑って返す。まるで、本当に家族みたいだ。
――家族?
 自分で思ったことに、わたしは自ら疑問を抱いた。その言葉の意味や雰囲気はわかるが、わたしはそれを表面上でしか理解していない気がした。まさしくこの身体のように、はりぼてじみた響きがある。
 けれどそんなわたしの思考など知らず、皐さんが笑顔で振り返った。
「ほなあかりちゃん、行こっか。色々見たら、昔のことちょっとでも思い出すかもしれへんし」
「――はい」
 そう。今の記憶の無い状態では、考えるだけ無駄だ。影を振り払うように、わたしは頷いた。