花は灯、舟は闇路に還りゆく(09)

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 ここナラカに来て、初めての朝が来た。
 と言っても、『朝』という表現には違和感がある。太陽の無いこの世界では、朝も昼も夕方も、空の色にはそれほど大きな違いがないからだ。
 唯一夜だけはわかる。だから、その夜が終われば朝だと定義すればいい。代謝が無い俺たちは睡眠も必要ないのだ――と美作さんは言っていたけど、少なくとも皐さんとれんくん、終夜さんは形の上だけでも就寝するらしい。わたしもそれに倣って、夜はベッドで休むことにした。
 瞼を開き、わたしはただ白い天井を見渡す。就寝と言ってもただ身体を横にして休めるだけだから、寝起きという感じでは無い。
 夜明けまでの長い時間を横になり、シーツにくるまって、ただ無心に目を閉じる。おそらく生前でも何千回と繰り返してきたのだろうこの行為は、とても懐かしく心地の良いものだった。このハリボテの身体が覚えている、生の記憶。淡い微睡。目を閉じてじっとしている間に、わたしは色んなことを考えた。この島のこと。一緒に住むことになった皆のこと。そして、自分のこと――
 わたしは自分自身に関する記憶が無い。海や空や家や、普遍的なものはそれとわかるのに、自分のことだけがわからない。そしてこれがとても稀な症状であることを、昨日の皆の様子から察した。
「なんか、よっぽどショックなことがあったんちゃう?」
 昨日――れんくんにするように、皐さんがわたしの頭を撫でてくれた。美作さんは、眼鏡のブリッジを押し上げたポーズのまま考え込んでいる。
「死因か、はたまた生前のことか……」
「何しでかしたんだか。――おい終夜、良かったなぁ」
 鹿城さんに突然矛先を向けられ、終夜さんが顔を上げる。言葉の意味が分からない、と言いたげな困惑が浮かんでいた。それでもにやにやと笑いながら、鹿城さんは続ける。恐ろしいあの眼のまま。
「なんだよ。お前よりも業が深そうな奴が来たんじゃないか。もっと喜べよ」
「何でやねん……あんた、ほんま汚い奴やな」
 呆れ果てたように、皐さんが呟いた。わたしの隣に座ったまま、終夜さんは動かない。驚いているというよりも、じっと耐えているようにも見えた。彼の様子に、鹿城さんは更に可笑しげに続ける。
「ああ? こいつの死に方よりはマシだ。知ってるか? 終夜はなぁ――」
「鹿城、いい加減にしろ」
 終夜さんの表情が凍りついたのと同時に、美作さんが凄んだ。
「これ以上余計なことを言うな。今そんなことを言って何になる」
 鹿城さんはまた「は」と鼻で笑い、呆気ないほどすぐに身を引いた。去り際、すかさずわたしの方を見る。
「お前」
「は、はい」
「記憶が戻ったら教えろよ。どんな酷ぇことしてきたのか、興味があるからな」
 にやりと嫌な笑みを残し、彼はばたんと大きな音を立てて扉を閉めた。
――業。
 わたしは意識を今に戻す。鹿城さんが言っていたその単語が、暗闇の中で何度も脳裏に浮かんでは沈んでいった。因果応報という言葉の意味は、おぼろげではあるけれど覚えている。前世の罪の報いが、生まれ変わった後にもずっとついて回ってくるということだったはずだ。
 生前の記憶が無いのは、生前のわたしの行いが関係している。鹿城さんだけでなく、美作さんや皐さんもそのようなことを言っていた。良くも悪くも、わたしの記憶が無い理由が生前にあることは確実なのだろう。
 寝返りを打つ。横倒しになった窓の外には昨日と変わらない褪せた空があり、風に弄られた黒い木々がざわりと揺れた。死んでいることが嘘のような、現世でも見ただろう景色ときっと大差の無い風景。嘘だと思い切れないのは、真に眠りに落ちたわけでは無いからだろう。睡眠状態を向かえずに終えた夜は、昨日の出来事を全て認めろとわたしに言い聞かせているようだった。眠って目が覚めると現実に戻っていて、自分が死んだなんて夢だったんだ――なんて都合の良い話は、この世界には無いということだ。
 一体わたしは、生前に何をしたのだろうか。
 何があったというのだろうか。生きていた頃のわたしに。
 ぞくぞくと血の気が引いていく。記憶の中にある闇にも似た空白に、わたしは酷く怯えた。自分自身のことが分からない事実が、やっと恐怖という名前を持ってわたしの所にやってきたのだ。シーツの中で膝を抱え、再びじっと目を閉じてみても、胸を押さえて深呼吸の真似事をしてみても、それは止まらない。と、
 窓の外だった。からんからん――という乾いた鐘の音が、微かにわたしの耳に届いた。昨日、わたしは港からこの屋敷までの道しか見てこなかったけれど、町のどこかに鐘楼があるのだろう。ベッドから起き出して窓を開け、音の出所を探して少し身を乗り出してみる。すると、見覚えのある長身が玄関の方から出て行くのが見えた。
「終夜さん?」
 美作さんやれんくんと一緒にいるわけでもなく、全くの一人だ。門の前で立ち止まり、鐘の音にじっと耳を澄ませているようだった。そして振り返り、窓から顔を出していたわたしに気付く。驚くふうも無く、おはよう。昨日もしたように、彼はゆっくりと口元を動かした。
「おはようございます」
 返すと、終夜さんは静かに笑った。声が無く、伏し目がちな所為で分かりづらいけれど、この人は元々表情豊かだったのではないだろうか。本来の彼はどんな風に笑ったり話したりするのだろう。どんな声をしているのだろう。業や死因、鹿城さんが言っていたことと今の彼には、どんな関係があるのだろう――と思った束の間、終夜さんは穏やかな表情のまま首を傾げ、更に口を動かしていた。そして、そこでやっとわたしは自分が着ている物を初めて意識する。
「あ……! ごめんなさい、こんな恰好で」
 着替えがまだ無かったから、制服を脱いだだけの下着をパジャマ代りにしていたのだ。慌てて身を隠すようにその場にしゃがみ込む。見えていたとしても上半身のキャミソールくらいなのだけれど、昨日知り合ったばかりの人に見せて良い格好じゃない。
 胸を落ち着かせ、そっと顔だけを窓から出してみる。終夜さんは既に身を翻していて、門をくぐって外の道へと出て行ってしまった。
 ほっとしたのと同時に、少し残念に思う。再びベッドに戻る気も無くなってしまった。わたしは一度小さく息を付き、箪笥から取り出した制服に腕を通した。