花は灯、舟は闇路に還りゆく(08)

  ◇


 病室の中に海は無い。
 けれど、母の目には見えていたらしい。

「今日は波が立っているね。風が、強いから」
 膝の上で手を重ね、ベッドの上から母が言った。春になったばかりだからだろうか。確かに、朝から風が強い。私がここに来た時なんて窓が全開になっていたし、慌てて締めたくらいだ。看護士さんが開けるとは思えないから、母自身がやったのだろう。
 道の途中で買ってきた花を花瓶に活け終え、私は振り返る。ただ白いだけの壁に向かって懐かしそうな顔をした母は、にこやかに、そしてこれ以上無いくらい穏やかに言った。
「あの人が、いる」
 また――と、聞くなり呆れてしまう。母はよく「あの人」という言葉を私に使うけれど、その人がどんな人なのか、母の何なのか、何という名前なのか、私には一切教えてくれた試しが無い。
 それでも、見えているのだろう。母の目には。
 買ってきたばかりの花が、溜息のように花弁をひとひら零す。私はローファーの上に落ちたそれを拾い上げ、こちらに向くことの無い母の横顔を再度見た。