花は灯、舟は闇路に還りゆく(07)

 皐さんが作っていた料理は、意外なほどに普通のカレーライスだった。
 湯気が立ち、匂いもある、何の変哲もないカレー。皐さんから盛り付けられた白い皿を受け取って、わたしはそれをまじまじと見つめた。
「食べ物は、現世のままなんですね」
「せやで。商店街に行ったらな、欲しいって思ったもんは全部あんねん。カレーって思ったら、出来上がったカレーが出て来る店もあるんやけど、やっぱり最初から作った方がええかな思って。美味しそうやろ?」
「あかりちゃんには美味しく感じるかもしれんが、俺にはどうだろう」
「もう! またそんないらんこと言う!」
 いつの間にか二階から降りてきた美作さんが、テーブルに着いて本を広げていた。さっきは終夜さんの膝の上だったれんくんは子供用の高い椅子に移動していて、グレーの猫――にに、という名前らしい――は、その椅子の足元で丸くなっている。上座に美作さん、右の側面に皐さんとれんくんの席があり、わたしはその反対側、終夜さんの隣の席を貰うことになった。美作さんの向かいの席は、まだぽかんと空いている。
「もう一人の方は?」
「ああ、あいつは放っておいたらいい」
「うちが呼んでも返事せんかったでなぁ。ま、同じ家ん中に住んでるんやし、慌てんでもええよ。さ、冷めてまうで! はよ食べよ」
「はい。――いただきます」
 配膳を済ませた皐さんに促され、わたしはカレーを一口頬張る。れんくんに合わせてか甘口に作られていて、なんだか懐かしく感じた。自分の家族のことは覚えていないけれど、五人でテーブルを囲んでいるのはまるで家族のようで、少し楽しい。そして半分ほど食べた頃合いを測り、美作さんが静かに一度スプーンを置いた。
「さて、あかりちゃん。ここに来てからまだ一日にも立っていないのだが、どうかな? その身体に、気になることや質問はあるだろうか」
「ええと……」
 たくさんある。ありすぎて、何から聞けばいいかわからないくらいだ。スプーンを止めたまま黙り込んだわたしを見て、美作さんは再度口を開く。
「死んでいるのに形があり、実態があり、五感がある。不思議だと思わなかったか?」
「……思いました」
 その通りだった。船の上でわたしが感じた事。形があり、触れられ、服を着て、呼吸ができる。自分は死んでいるんだという自覚がある分、この身体と意識の間に拭えない差ができている。動いたり話したり、こうして周りと交流はできているけれど、そもそも何故死んだ後にも生きていた頃と同じ体を持っているのか――ということから、既に不可解なことだった。
「これは俺の仮説だが――俺たちは、魂が持ってきた現世の記憶でできているのだ。生きていた頃とまるで変わらずに動けるが、時間が経てばわかる。実際この身には代謝、つまり生きている上で欠かせない……身体、引いては命を維持しようという働きや機能が無いんだ」
 代謝が無い――その言葉に、わたしは思ったままの言葉で返した。
「でも、呼吸はできてます」
 生きている時と変わらない感覚で、わたしは息をしている。代謝が無いの言うのなら、酸素を体に取り入れる必要だって無いはずだ。
「できている気がしているだけである、と俺は考えている。呼吸ということそのものが、身体に染みついているからな。俺も最初は試しに息を止めてみたことがあるが、多少苦しいと感じても酸欠になることは無かった」
「センセ、何やっとん……」
 れんくんにカレーを食べさせながら、皐さんが呆れ口調で言った。
「何でも物は試しだ。そして、他の事でもそうだった。今こうして食事をしているが、本来なら俺たちは物を食べなくても何ら問題が無い。しかし、君は死んで間もないから、身体に現世の時の反応が強く残っている。生前の習慣で空腹感を覚えてしまうから、来たばかりの頃はこうしてフェイクでも食事が必要なのだ。先ほど皐も言っていた、新入りには料理を食べさせるという考えもこれが起因している。墓に供え物をするのもあながち間違った発想ではなかったというわけだ」
 ふっと皮肉めいた笑みを浮かべ、美作さんもカレーを一口食べる。
「因みにこのカレーは、生前の記憶に基づいた匂いと味と食感と、“食べた”という実感を舌の上で再現した後は、分解も吸収も排泄もされずに体内で消える。君が感じているその味と俺が感じているこの味は、同じ皐の味付けかもしれないし、全く別の、記憶の中のカレーを再現した味かもしれない。あかりちゃんには美味しいかもしれないが、俺にはわからないと言ったのはそのためだ」
「えー、うちの味やないと嫌やな。美味しいやろ? センセ」
「不味くは無い」
「何それ!」
 膨れる皐さんを尻目に、美作さんはわたしに向かって続けた。
「それから、この身体では病気をすることも怪我をすることも無い」
「怪我も、ですか」
「ああ。例えば――あそこにある包丁で、手を少し切ったとしよう」
 言って、シンクに視線を移した。皐さんが綺麗に洗った包丁が、水切りに立て掛けてある。
「切った瞬間は、痛みがある。やってしまった、血が出ているのではとも思うが、手にはどこにも傷など無い。あるのは、食事をした時と同じ――生前の記憶を元にした“痛い”という感覚だけ」
 その時、美作さんの背後でドアが開いた。
「――そうだ」
 低い声。一人の男の人が、ぬっと姿を現す。黒いシャツを着た体格は痩せていて、歳は終夜さんや皐さんより少し上くらいに見える。ぼさぼさの髪がかかって顔はよく見えないけれど、前髪の隙間からぎょろりとした目が見えた。
「この身体は、ハリボテだ」
 自嘲するように続け、その彼の目が、こちらを見る。
「カシロ……聞こえていたのか」
 美作さんが溜息交じりに言った。わたしに目配せして、次に男の人を視線で示す。
「あかりちゃん、こいつは鹿城(かしろ)。この屋敷の最後の住人だ」
 直感的に思った。この人――鹿城さんは、怖い。闇を切り取ったような目は、優しげに伏せられた終夜さんのそれとは違う。自分以外の全てを呪っているような色をしていた。
「鹿城、あんたカレー食べる? 汲んだるけど」
「は」
 皐さんの誘いを、鹿城さんは鼻で笑って返した。
「俺はそんなもの食いに来たんじゃない。顔見に来てやったんだよ、そいつの」
 怖い目が、わたしに強く向けられる。ぎくりとしたけれど、わたしは何とか声を振り絞った。
「……はじめまして。ふじさき、あかりです」
「へぇ、喋れるんだな」
 意味ありげなことを言いながら、鹿城さんは舐めるようにわたしの顔やセーラー服を見回した。その目に耐えられず、わたしは膝の上で自分の手を握り締める。
「高校生か。死因は何だ? 事故か? 病気か?」
「ちょっと鹿城、来たばっかの子に何聞いてんの! ほんまデリカシーの無いやっちゃな!」
「お前みたいな下品な女に、デリカシーがどうとか言われたく無ぇな。何だったっけな、お前の死因。梅毒だったか?」
「な……うち、そんなんで死んでへんし!」
「梅毒で死ぬなんていつの時代の話だ。知識も無いのに適当な事を言うな」
 再びカレーを食べだしていた美作さんが、溜息交じりに皐さんと彼の間に割り込んだ。鹿城さんは手のひらでテーブルを叩き、美作さんを斜め上から見下ろす。
「もう死んでるからなぁ。知識なんて必要ないのさ。無意味な事にご執心の大先生はご存じ無いかもしれませんが」
 じゃがいもを掬い上げたスプーンを止め、美作さんはふっと鼻で笑う。
「逆だろう。お前には、死んでもわからん事だったのだ。他人を巻き込んで死んでも、そんな下らないことを言ってられるようなお前には」
「――っ、」
 鹿城さんが唇を噛む。食卓を挟んで睨み合う二人を気に掛けつつ、隣に座っていた終夜さんがとんとんとわたしの肩を叩いた。
 いつものこと。
 終夜さんの口元が、声が無くてもわかりやすいようにゆっくりと動く。この二人が言い合いをするのは日常茶飯事ということだろう。
「れん、大丈夫やでな。ごはん食べよ?」
 いがみ合う二人に対し、皐さんさえも呆れたようにれんくんへと向き直る。言い合いが続き、すっかり萎縮してしまっていたのだ。終夜さんも申し訳なさそうに弱く苦笑し、わたしにカレーを食べるよう目で促す。彼に誘われるようにスプーンを手に取り、わたしはふと自分の中にある引っかかりに気付く。
 美作さんは作家だったという。れんくんは、生前の後遺症で人見知りだ。皐さんも鹿城さんも、自分の生前の事を知っているような口調だった。
 けれど、わたしは知らない。わたし自身に関する記憶だけが無く、名前さえも、身体が覚えていただけのものだった。死因も知らなければ、どう生きて、どんな人間だったのかさえもわからない。
「……あの、生前の記憶って、あるものなんですか? わたし――死因も自分のことも、覚えて無くって」
「何だって?」
「嘘やん。あかりちゃん、ほんまに?」
 終夜さんにだけ言ったつもりだったのに、鹿城さんと皐さんが同時にこちらを向いた。美作さんでさえも、信じられないものを見る目をしている。
「あかりちゃん、それは本当か? 覚えてないとは――生前の記憶が無いなど、ここに来てから初めて聞いたぞ」
「え――」
 三人の反応に驚き、わたしは終夜さんを顧みた。けれど、彼もまた同じく茫然とこちらを見ている。その表情で、わたしは完全に言葉を失った。じわりと、嫌な確信が頭の淵を浸していく。
 死んでしまったから記憶が無いのではないのだ。
 わたしだけが、生前の記憶を持っていない――何故。
 なあ。
 テーブルの下で、ににが鳴いた。まるで、わたしに記憶が無いことを責め立てるように。