花は灯、舟は闇路に還りゆく(06)

「左側の角部屋が君の部屋だ。向かいが終夜で、隣は皐とれんが使っている」
 年季の入った、けれど綺麗に磨かれた板張りの廊下に、美作さんの声が響いた。外観ののっぺりとした質感とはうらはらに、建物の中には思いの外木材が使われている。木造りのドアを開け、わたしは今から自分が住むことになる空間を見回した。
「綺麗な部屋ですね」
「数日前に発った住人が使っていた。私物は全て無くなっているはずだ」
 家具はシンプルなベッドと机、小さな洋服箪笥しか無く、窓には麻のような素材のカーテンが掛かっていた。風が吹き、ふわりと揺れる。高台に位置するからか、開け放たれた窓の外は一階でも十分に見晴らしが良い。単調な色彩の町並みの奥に、先ほどはもっと間近にあった真っ直ぐな水平線が覗いている。
 その上に横たわり望遠を阻む闇が、先ほどよりもずっと濃くなっている。空の色は更に褪せ、海から立ち上っているような闇に浸食されているように渦巻いていた。そして、その色を背景に浮かぶ、大きすぎる白々とした下弦の月。それは、まるで、
 まるで、死骸のような。
「もうすぐ夜になるな。闇が近付いてきている」
 背後で美作さんが呟き、わたしは振り返る。
「……昼や夜の違いもあるんですね」
「一応そのようだ。見てわかるとおり、この世界には太陽が存在しないのだが、その所為か時間の概念自体も無くてな。朝も昼も夜も、空と海の様子を見て判断している」
「朝になると、闇が消えたりするんですか?」
「消えるとまではいかないが、薄らいで見えるな。まぁ曖昧なものだ。しかしこのおかげでかは知らないが、この島には時計がない。死んでからも時間に追われることが無くて俺なんかはほっとしたが、やはり慣れるまでは戸惑うだろう。ただ、これに乗じてゆっくりするのも中々良いぞ」
 美作さんは悪戯っぽく笑った。ここに来てから感じていた、空気がゆったりと間延びした感覚はその所為だったのかもしれない。
 不思議な世界に来てしまった。生前の、自分に関する記憶も何の荷物も持たず、ただ制服だけを着たアリスになった気分だ。見たことがあるようで、全く見覚えの無い、得体の知れない世界。身体が縮んだり大きくなったりはしないだろうけれど、幻覚を見ているか、もしくは、夢の中にいるような浮遊感は、海の上からずっと拭え去れていない。
 いや――そこまで考え、わたしははたとイメージを改めた。アリスはわたしよりもずっと希望がある。だって、生きて元の世界に戻れたのだから。
 わたしはもう生きてすらいない。発つ、と美作さんは表現しているけれど、発った先には一体何があるのか、ここに進行形で住む人たちにはわからないことであるはずだ。海に呼ばれて、発った先に何があるのか――考えれば考える程、不安で仕方がない。生前でも感じていただろう死への恐怖が、そのまま海の彼方へと移ってしまったかのようだ。
 窓に背を向けたわたしの揺らぎを悟ってか、美作さんは何も言わずに部屋を後にした。そこで、廊下の途中にはある階段にわたしは初めて気が付く。美作さんが立ち止まらなければわからなかったほどの、ささやかな細い階段だ。
「あまり上がる機会は無いと思うが、二階には俺と、もう一人の住人の部屋がある」
「そうなんですね、挨拶は――」
「ああ、いや。今はいい。俺から、食事に顔を出すように言っておく」
 どんな人物なのかを聞く前に、美作さんはひらひらと手を振って会話を中断する。
「用意できるまで部屋にいるから、出来上がったら呼んでくれと皐に伝えて欲しい」
 そう言い残して、美作さんは二階に上がって行った。もう一人の住人について気になったけれど、どちらにせよ会えるなら挨拶はその時で良い。わたしは一度玄関へと戻り、ホールを渡って台所らしき場所へと向う。調理器具がぶつかり合う軽い音と、楽しげな鼻歌が聞こえてきた。
「あっ、あかりちゃん! ちょっと待ってな」
 古めかしいコンロに掛けたお鍋と向き合いながら、皐さんが振り返った。先ほどは付けていなかった、クリーム色のエプロンをしている。
「美作さんが、部屋に行かれました。出来たら呼んで欲しいって」
「ええ! もうできるんやけどなぁ。センセ、集中しだしたら腰重いでいややわぁ」
 鍋の中をかき混ぜながら、ふうと軽い溜息をついた。
「……美作さん、何をされてるんですか?」
「小説書いとるんや。センセ、生きてる時は作家さんやったみたい。今でも、書いとる時間が一番楽しいんやって」
「ああ――だから、先生なんですね」
「そそ。そうやあかりちゃん、れんと遊んだって! 人見知りするけど、ええ子やでな」
 皐さんに促され、キッチンと繋がっているダイニングを見る。みんなで食事を囲んでいるのだろうテーブルには終夜さんが着いていて、彼の膝の上に座った男の子――れんくんがテーブルに画用紙を広げている。わたしも、その隣の席に腰かけた。
 グーで握ったグレーのクレパスで、画用紙いっぱいに何かを描いている。わたしの脛にふわりとした感覚が通り過ぎ、なあ、と猫の声がした。
「猫を描いているの?」
 優しい口調を意識して、尋ねてみる。けれど、れんくんはびくりと身体を震わせ――ぱたりとクレパスを取り落とした。泣きそうな顔で視線を泳がせ、体の向きを変えて終夜さんの胸に顔を埋める。
「――ごめんなさい」
 急な変化に驚き、わたしは慌てて謝った。れんくんを片手で支えながら、終夜さんがまた微かに苦笑してクレパスを手に取る。そして、
『気にしないで』
 画用紙に、綺麗な文字が並んでいく。
『生前の後遺症のようなものだと思う』
『最初はこんな感じだけど、だんだん慣れていくから』
『めげずに構ってあげて欲しい』
 はっとして、わたしは顔を上げる。終夜さんは少し驚いた後、すぐに気まずそうな顔をして、再度クレパスを動かした。
『びっくりさせたかな、ごめん』
「いえ、ええと」
 戸惑うわたしを見返し、彼は更にクレパスを進める。
『少し面倒だけど』
『おれには、声が無いんだ』
 おっとりした目元を伏せた。すまなそうで、どこか憂鬱な横顔。何故――わたしは言葉を掛けようとして、迷う。何を言えば良いのか、即座に判断できなかったから。
「ほい、できあがり! ちょっとセンセとカシロ呼んでくるわ。待っとって!」
 キッチンで皐さんの声が上がり、ぱたぱたと廊下に出て行く。返答するタイミングを見失って、わたしは、れんくんの髪をそっと撫でる終夜さんの手のひらを盗み見ていた。