花は灯、舟は闇路に還りゆく(03)

 岸は、いつの間にか港に変わっていた。
 ぐるりと見渡してみる。半円に造られた波止場の奥に、見たことも無いような街が見えてきた。
 陸――いや、島なのだろうか、ここは。
 緩やかな丘の稜線をなぞるように、古い石造りの建物が並んでいる。木々も点々と生えているけれど、黒に近い濃緑のそれらは街の彩りに一役買っているわけでは無い。建物は白っぽく、全体がモノクロだった。丘の一番上には風車が立ち並び、干された洗濯物が風を孕んで翻る。人が住んでいる気配。違和感と安堵が交差して、どこか懐かしささえも覚えた。
 船はゆっくりと船着き場に入る。港の奥。待合所らしき庇の下に人の影がぽつぽつ見え、わたしは少しだけ安心した。死人とはいえ、この得体の知れない状況で独りきりだったらと思うと、不安で仕方が無かったからだ。
 港に着き、船はひとりでに錨を降ろした。なぁと猫が鳴き、身体をよじってわたしの腕からすとんと跳び下りる。なぁ。振り返り、もう一声。そのまま、甲板の上をとんとんと歩いていく。
「どこ行くの?」
 なぁ。船から降りる階段で脚を止め、猫はまた鳴いた。真ん丸い目でこっちを見て、わたしを呼んでいる。わたしが近付くのを待って、猫は階段を下りて行った。
 船から港に移り、更に歩いていく。追いかけるわたしも船を降り、機嫌よく揺れる尻尾を目掛けて次第に小走りになっていった。
 海を切り取る石畳の硬さ。これもまた、リアルそのものの感触だ。潮の匂い。地面のつぎはぎの隙間に自生する柔らかそうな苔。猫は人がいる場所を通り過ぎたが、話し声などは聞こえなかった。ただ遠く近い不安定な波の音だけが響いている。風になびく髪が頬を撫で、制服の赤いスカーフが舞った。猫は走り、白い石造りの建物の影に隠れ、その先でなぁとわたしを呼ぶ。揺れる尻尾を目印に角を曲がり、わたしは、

 彼を、見つけた。

 なぁ。猫が甘えた声で鳴く。
 彼。長身の青年が身をかがめ、猫の背を撫でていた。ゆっくりと顔を上げる。白いシャツと黒いスラックス。一見すれば学生のようだけど、どちらかと言えば喪服の雰囲気に近い。それを置いてもまず、彼はわたしより十歳ほど年上に見える。二十代半ばくらいか。
 そうして、光を湛えない伏せがちな暗い目が、真っ直ぐにわたしを捉えた。
 なぁ。もう一度猫が鳴き、今度はわたしの足元へと駆けて来た。ぐるりと一周円を描き、もう一度振り返り、そして、船のある石畳の道へと引き返して行く。
「あ、」
 猫を追おうとしていたわたしの手を、彼が掴んで引き留めた。わたしの手首など余裕で包んでしまうような、大きな手のひらだ。振り返ると、彼は無言のまま小さく頭を振った。追いかけなくてもいいということだろうか。そこでわたしは、あることを察した。
 あの猫は、わたしを誘導するためにここまで来たのだ。きっと。
「――おおい、シュウヤ。いたのか?」
 後ろから声が聞こえ、彼の手がするりと離れる。その軽快な声の主は、彼の斜め後ろから近付いてきた。こちらは五十代後半ほどだろうか。長身というほどではないけれど痩せていて、眼鏡を掛け、髪には少し銀色が混じっている。
「こりゃまた若いお嬢さんだな」
 わたしの姿を見て、その男の人が少し笑った。おどけたようなひょうきんな顔。長袖のポロシャツに綿のズボンという、長身の彼よりも砕けた年相応な普段着を着ている。
「あの――わたしに、何か用ですか?」
「そうだ、君を迎えに来た。今日から、一緒に暮らす仲間だからな」
 頷いて、彼は思いも寄らないことを言った。
 一緒に暮らす? わたしが?
 死んでいるのに?
 疑問を口にできないままにいると、わたしの困惑を汲んだのか、男の人は自分の胸をとんと叩いた。
「俺はミマサカという。こんなナリだが、美しく作る、と書いてこう読む。そしてこいつは、シュウヤ。終わりの夜で、終夜だ」
 無口な長身の彼――終夜さんがこくりと頷いた。美作さんが、わたしを促す。
「君の名前は?」
「わたしは――」
 言いかけ、その瞬間、ぞっとするような空白が脳に飛来した。
 知らない。
 というより、浮かんでこない。さっきと同じだ。記憶に全くない。思い出せない。空や海や船には覚えがあるのに、自分の事だけが、思い出そうとすればするほど阻まれてしまう。記憶が、何かによって塞がれている。
 不意に目に入った終夜さん眼差しが、不思議そうに揺れた。彼がわたしの名前を知っている筈無いのに、わたしはまるで縋りつくように、その黒い瞳を見つめる。
 わたしの名前。
 それは確かにあったのに。
 覚えていない。他の記憶と同じように、闇の中に深く沈んで探し出せない。
 眩暈。ああ――わたしは、なんという名前だった?
 けれどわたしの口は、そんな自分の意思や記憶などお構いなしにそれらしき音を紡いだ。
「あかりです。ふじさき、あかり」