花は灯、舟は闇路に還りゆく(02)

  *


 ゆらゆらとたゆたいながら。
 遠く近く、微かに、けれどはっきりと、潮騒の音が聞こえる。
 甲板の上を猫が歩いていた。毛は少し長く真っ白で、たまに立ち止まってはこちらを見る。わたしは屋根の下のベンチに座って、今ちょうど目を開けたままの姿勢で彼を見つめ返した。
 なぁ、と一声。
 そんなふうに請われても、生憎わたしは何も持っていない――と思う。ポケットに手をやってみても何かが入っている感じは無いし、隣にも足下にも、荷物らしきものは何もない。わたしは全くの手ぶらで、それを知らせようと猫に手のひらだけを見せた。なぁ。恨めしげに座り込み、猫が鳴く。尻尾だけが、別の意思を持っているようにくるくると動いた。
 わたしは腰かけたまま、自分自身の姿を観察する。白と黒のセーラー服、膝丈のプリーツスカートにハイソックス、茶色のローファー。肩上で切り揃えられた髪が風で揺れる。どこもおかしいところは無い。手にも足にも頭にも、意識はしっかり通っている。そっと立ち上がり、動きを止めてわたしを待つ猫へと歩み寄った。甲板の硬さ、それを支える海の微かな揺れを感じ取る。
 全てが恐ろしいほどリアルだ。頬にまとわりつく風も、潮の匂いも、空を映す重い色の海も、全部昔から知っている通りのものだった。まるで、生きているみたい。わたしは猫に近づいて、その金色をした目を覗き込む。
「――あなたも、死んでしまったの?」
 死んでしまった。
 前に目を開けていた時のわたしは、もういない。違うわたしになってしまった。
 上手く表現できないけれど、わたしはもう、死んでしまった人間なのだ。目を閉じる前、わたしは確かに生きていた。そして命は断たれ、ここにいる。諦めにも似た冷静さでもって、わたしはそのことを不思議と客観的に理解できていた。
 猫を抱き上げ、私は船の淵を囲うフェンスから少しだけ身を乗り出す。後ろを見れば、真っ直ぐな水平線――ただこれだけの事なのに、恐ろしいほどの違和感があった。水平線というものは緩い弧を描いていて当然なのに、この世界ではそうじゃない。この行先をずっと延長していった先が、またここに繋がっているという球体の安心感そのものが抜け落ちているのだから――と、それと無表情に向かい合う褪せた色の空。水平線に近くなればなるほど、空は深い藍色になっていく。闇、と言った方が良いかもしれない。まるで逆向きの白夜だ。太陽も雲も無い空は恐ろしいほどに表情に乏しく、真上を仰げば淡い青があるのに、視界の果ては夜のようで、
 月だけが。
 目を見張る程に大きく、真っ白な下弦の月だけが、こちらを見下ろすように佇んでいる。
 ざざ、と海が鳴く。猫を抱いたまま水面が良く見える位置に座り直し、わたしはぼんやりと船の行く先を見つめた。不思議な海を渡る船。客船ではあるだろうが、規模自体はそれほど大きくない。現に、私以外の乗客は殆どいないように思えた。階下にいるのかもしれないけれど、今の所、人の気配そのものが無いみたい。
――ああ、でも、それでいいのかも。
 だって、わたし以外の人間も、きっと。
 死んでいるのだから。
 わたしはフェンスから上から身を乗り出し、この船の後方、これまでに描いてきた澪を見つめる。その奥には、真っ直ぐな水平線の上に横たわる闇。ということは、私はあの闇の向こうから来たことになる。目を閉じる前のわたしは、あの闇の向こうにいた。
 けれど、そこから後の記憶は――
 眩暈に襲われ、わたしはフェンスから体を離した。猫を抱えたまま蹲る。おかしい。海や空や猫のことはわかるのに、こうして触れられる世界があったことは確かに覚えているのに、
 どうしても、自分自身の事だけが思い出せない。
 じっと眩暈が通り過ぎるのを待ち、わたしは最初に座っていたベンチへと引き返した。なぁ、と心配そうに猫が鳴く。自分がどうしてここにいるのか――どうして死んでしまったのか。わたしはどんな人間で、どんな景色の中を生きていたのか。それさえも思い出せない。分厚い壁の中に閉ざされて、呼吸すらも上手くできないような感覚。生前の記憶は闇の中に沈み込んで、この船の上からは見えなくなっている。目を閉じる前のわたしがいた場所に、今ここにいる死んだわたしが思いを馳せるのは、禁忌なのかもしれない。
 ゆらゆらとたゆたいながら、わたしはもう一度瞼を閉じる。そして、眠りを覚えそうで覚えない、夢を見そうで見ない曖昧な境域を浮沈する。深く息を吸えば胸は膨らみ、吐けばじわりと肺が落ちた。脈もあり、心臓の気配もある。自分自身のことは思い出せないけれど、わたしは確かに、この感覚が生きていた時の状態に限りなく近いことを知っていた。
 死んでいるのに、生きている。わたしがもし幽霊や化け物なのだとしたら、この身体は、この船は、この海は空は、一体何なのだろう。
 なぁ。思考に返事をするかのように、腕の中で猫が鳴いた。
 再度目を開ける。気が付けば、船の行く先に岸が見えかけていた。