Sparrow!!--#1.5:Cling(01)

 うだるような暑さの真昼がやっと廻り、夕刻を告げる風がすぅっと部屋をすりぬけた。
 左手に持ったシャーペンをころりと卓上に投げ捨て、翔は風に引きつけられるように開け放した窓に視線をやった。日光は知らぬ間にオレンジに色を変えており、見下ろす街の至る所に濃く長い影を作る。
 遠く蝉の声が聞こえた。鼻孔をくすぐる豊かな匂いは、近所の中華屋から流れてきているのだろう。長時間の集中を終えた後独特の軽い眩暈を覚えつつ伸びをし、これまで書き綴ってきたノートを適当にめくった。学校ではタブレット状の電子ノートを推奨されているが、こうして自宅では紙のものを使っている。同じ内容を何度も何度も紙に書くことでそれが身に付くという、去年他界した祖父の教えの一つだ。
 その祖父から受け継いだ膨大なノートと書籍、それと自分でまとめ直したものを見比べ、翔は小さく息をついた。
 整備士試験は来週末に迫っている。今進めているこのペースで、自分は本当に筆記試験の出題範囲を頭に詰め込むことができるのだろうか。薄暗くなった天井を見つめ、このまましばらく思考を止めることを意識する。一度集中すると簡単に解けないこの気質は、リフレッシュの仕方すらも定ませてくれない。母は研究の合間に散歩をしたり喫煙したり麻雀をしたりして気を晴らすらしいが、自分と言えば、気付けば単にぼんやりとして時間を食いつぶしてしまっている。
「――……何か食べよう」
 思わず思考が声に出てしまった。絶え間なく侵入してくる中華屋の匂いが、忘れていた空腹感を目覚めさせたのだ。時計を見ると6時を少し過ぎており、前に食事をしてから8時間以上経っていたことに驚きを通り越して辟易した。
 この時間になっても帰って来ない所を見ると、母はまた職場で夜を明かすのだろう。かれこれもう二日も顔を見ていないが、愚痴の電話一つ無いのは仕事を楽しんでいる証拠だ。母の分の夕飯は作らなくて良いから楽だという気持ちと、自分の分だけ作るのは面倒だという気持ちが、夏場の水溜りのようにぬるくなった脳内で交錯する。
 買い置きのレトルト食品は母が全て食べてしまってから補充していないし、野菜の類も古いからと昨日まとめて使い切ってしまった。どちらにせよ外に行かねばならない――のだが、極限までカロリーをすり減らした体はどうにもその結論を認めようとしない。
 ワン、ワンと外で犬が鳴く声がした。しかし近所に犬を飼っている家はいない。ついに空耳を聞くほど頭が回転しなくなった、と思いかねた時、階下から聞き慣れた低い声がした。
「――る……かけるー。寝てるのかー?」
 反射的に椅子から跳ね起き、部屋を飛び出して階段を下りた。こちらの足音に反応してか、犬が更に鳴き声を上げる。足早に玄関まで駆けつけると、その人物は長身を屈めて飼い犬の足をタオルで拭いている途中だった。
「……航(わたる)」
 呼ぶと、その鼻筋の通った精悍な顔がこちらを振り向いた。涼しげな目元が、こちらを見るなりくしゃっとほころぶ。
「お。やっぱ寝てたんだ」
「勉強してたんだよ」
 彼――航の手から離れた犬が、嬉しそうに翔に飛びついてきた。犬種はわからないが、黒と白の艶やかな毛をもつ中型犬で、くりっとした愛嬌のある目をしている。唯一普通の犬と違うのは、後ろ脚が左右とも機械の義足であるということだけだ。
「はは。小次郎、俺に対する態度と違いすぎるぞ」
 現在の飼い主である航が苦笑した。三年前に子犬のまま捨てられていたのを翔が拾い、おそらく生まれた頃から壊死(えし)していた後ろ脚を、祖父が義足を作って補った。最初に見たときは衰弱して這うこともできなかったのに、今では驚くほどによく食べてよく動く。祖父がいなくなってからは翔が義足のメンテナンスをしているのだが、どうやって直せばいいのかもわからない壊れ方をして来る時もある。
「で、どうしたの?」
 千切れんばかりに尻尾を振る小次郎を落ち着かせて航に向き直ると、彼はそうそうと今思い出したかのように、傍らのスポーツバッグから大きなタッパーを取り出した。
「昨日作った夕飯がかなり余ったからさ、お裾分けしようと思って。翔、カレー好きだろ?」
 地獄に仏とはこのことか。よほどこちらの目が輝いたのだろう、航はまたおかしそうに笑った。三十代後半には思えない若々しい顔立ちも、スポーツカメラマンらしい引き締まった腕も、先月末に会った時よりも更に日に焼けている。
「もしかして、めちゃくちゃ腹減ってた?」
「……うん、嬉しい。夕飯まだ? ご飯なら二人分は残ってるから、一緒に食べよう」
 自分も小次郎と変わらないな――と思いながらも、翔はいそいそと彼を台所に通した。早速冷蔵庫に残っていたご飯をカレー皿によそおう。小次郎用に買い置いてあるドッグフードを開けながら、航はさして広くない台所を見回した。
「つぐみは仕事なんだな」
「そう。多分、今日は帰って来ない」
「へぇ。夜通し仕事なんかして体壊さないのか」
「心配な時もあるけど、仕事しなかったらしなかったでストレスになるみたいだから。よっぽどじゃないとほっといてるよ」
「変わんないなぁ、あいつも」
 ガトリングガンのような勢いで食事にありつく小次郎を横目に、カレーをレンジで温めつつ二つのグラスに牛乳を注いだ。嗅ぎ慣れたルーの匂いは、先ほどの中華屋よりも更に空腹感を刺激する。航の作ったカレーが、翔は一番好きなのだ。