Sparrow!!--#9:Evoke(06)

「さっき、何でもないって言ってたよね」
 俯きがちの雛の横顔を見る。彼女はこちらの視線がわかったようで、控えめに目を合わせた。
「何でもない、はね、言わない約束だよ」
「――ごめん。そうだった」
 去年、それこそ一年前に二人で決めたことだった。雛は勤めて堅い表情に拗ねを混じらせて、こちらをじっと見つめる。
「私に言えないことを考えてたんだね。……誰か、好きな子でもできた?」
「まさか! 俺は――」
 翔の様子がツボに入ったのか、雛はそこで小さく吹き出した。小鳥の囀りのような笑い声が尾を引く。
「冗談だよ」
 傘のビニール越しに照らす街灯の光に、頬に淡く朱がさしているのがわかった。翔は翔で、顔を背けようとして失敗する。緩やかな顎を小さく傾けて見上げる雛から目を離せず、思わぬ距離で見つめ合った。
 初秋のぬるい雨が頬を濡らすように、雛の考えがわかるようだった。目に見えている境界を踏み越えずにいるこちらを、彼女はこうして迷子の手を引くように誘いその度にあっけなく手を離す。去年の夏大会で偶然出会わなければずっとただのクラスメイトのままだったはずで、今互いを繋いでいるものはFMしか無いのは、翔だけでなく雛自身もわかっていることだ。だから、この境界をめぐる駆け引きは時に遊びや悪戯ではなくなる。勇気も経験も無い十七歳には、現状維持が精一杯なのだった。
 翔はやっと視線を前に戻し、陸央やつぐみに言えなかったことを打ち明けることにした。
「黎二と会って、少し話したんだ。週末のこと」
「……そうなんだ。何か言ってた? 周藤さん」
「負けられない。覚悟しとけって」
「えっ」
 雛が声を上げ、足を止めた。しかし、顔には嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
「意外。そういう風に言われるなんて」
 意外なのはこっちだ。知れば怯むのではないかと気を遣い黙っていた自分が恥ずかしく、同時に――怯んでいたのは自分だと翔は初めて気付いた。雛が自分のことを選手だと思えない理由が自分なのではないかと、翔は思っていた。見ないふりをしていても、それはいつもこびりついている。絶対に勝つといくら口で言っても、対等に扱われていることに喜ぶ雛と自分は違う。自分の言葉は、焦りや怯えや不安を隠す蓋だった。雛に、陸央に、つぐみに、颯介に、黎二に、勝てなくても自分は最善を尽くしたんだと言い訳するための保険で、だから黎二に少し突かれただけでぐらつくのだ。
 下唇を軽く噛んで結び、翔は頷く。
「だよな。もっと馬鹿にされてると思ってた」
「うん。実際、私も……さっきの模擬も勝てなかったし。ブレイク失敗しちゃって」
 雛の言う通り、先程のAIとの模擬は三戦三敗の結果だった。ブレイクを仕掛けはしたものの、人間ですらない偽物の黎二に全て躱されてしまった。
「ブレイクは実戦じゃないと上手く出せないって母さんも言ってた。バーチャルの模擬では不確かだから、さっきは組み込めただけでも良いと思う。明日晴れたら、陶子さんにも見てもらおう」
「うん……」
 頷きながら、納得ができない顔をしている。できれば使いたいのは翔だって同じだが、ブレイクに関しては確実に身に着けることを重視しなければならない。
「俺がチャンピオンを目指したきっかけ、覚えてる?」
「覚えてるよ。好きな操縦士さんがいたんだよね。年齢のせいで、辞めちゃった」
「うん。その人が引退した時に、一人でもチャンピオン目指せって言ってくれたのが黎二なんだ」
「――そうだったの」
 予想外のことだったようで、雛は目を瞬かせた。翔は先ほどの彼女と同じく雨を見る。
「小さい頃はさ――黎二は憧れだった。背も高いし、強いし、自分にも他人にも正直だし、小さい頃はあんな風になりたかった」
「……わかるかも」
 雛は小さく頷いた。大きな角を曲がる。なだらかな坂のずっと向こうに、白く大きな一軒家が見えてきた。
「困った時や憂鬱な時、何かあっても黎二が助けてくれるんだって心の何処かで思ってたんだ。ヒーローだった。黎二がいたから今の俺があるんだと思う。ずっと別物で、超えようなんて思いもしなかったし、選手になっても変わらなかった」
 傘の骨から垂れた大きな雫が肩先を濡らし、反対側はまだ雛と触れ合っている。雛にとっては悪戯のつもりだろうが、リードをしているはずだった彼女に傘を差されているこの状況が、翔にとっては自分がまだ誰かしらに守られる側であることを象徴している気がしてもどかしい。前にあるのが当たり前だった黎二の身体が、いつの間にか隣にあったように。
「俺は、雛みたいに格上を相手に毅然とできない。未熟で臆病で、未だにフォールも怖い。雛や陸央に置いて行かれているんじゃないかって気後れもあったし、勝つんだって言っても、ただの強がりだ。憧れてるだけの子供だ。強豪に勝っても、新しい技を取り入れても、俺は何も変わってない。黎二を越えなくちゃ自分も先に行けないって思うのに、凄く怖いんだ」
 歩調は遅くなりきっていたし、辺りは暗くなりつつある。けれど、二人は端末で時間を確認することもしない。タイムリミットが目に見えているのに、雛は黙ったきりだった。呆れているのかもしれない。不安が強くなったのかもしれない。しかし、弱音も虚勢もこれ以上は吐けなかった。白い家が近づいてくる。上品な装飾の柵と門があり、春には木香薔薇の咲く庭があり、白い階段があり、大きな木造の扉がある、雛が育った家だ。
「未熟でも臆病でも、強がりでも、良いよ」
 もう別れることをわかって、雛は時間稼ぎのように立ち止まる。伏せていた瞼を少し上げ、真剣な表情にほんの少しのはにかみを垂らした。
「教えてくれて有難う。私も自分ばっかり先走って、翔のこと蔑ろにしてるのかもって思ってた。だから、正直に話してくれて嬉しい。そうだよね、越えなきゃいけないの。翔が周藤さんのこと特別に思ってるなら、なおさら。それに……私のヒーローは、翔だよ」
 ほっそりした掌が傘の手元ごとこちらの手を包む。流れるように返し、雨へと駆け出た。濡れちゃう――と、訓練中のようなはしゃいだ声を上げる。
「じゃあね。明日は、晴れたら良いね」
 こちらが返事をする前に、雛は大きな扉に吸い込まれて行った。
 風が吹き、斜めになった雨が今まで雛がいた方の肩を濡らす。突然の寒気が雛の温度の名残をまき散らせ、鼻孔の奥を刺した。
「――っくし」
 小さなくしゃみを残し、翔は自分の帰路に戻った。


 空を秋へと模様替えさせかけていた雲が、一日で全て雨になってしまったようだ。
 夏に戻されたのではないかという程の陽気だった。朝から午後三時までのアルバイトを終え、ホムラの調整のために一度ドックに入った。一通りのチェックを済ませ、地図の上ではトンボのようにUの字を描いて海峰園の方に向かう。ジムにいるであろう黎二を冷やかしに行くのだ。端末は女友達からの連絡を画面の点滅で知らせているが、もう週の後半に入っている以上、そうそうまめに返していられない。それに、いつでも捕まる男だと思われると厄介でもあった。焦らせて忘れたころに、例えば就寝前か早朝に素知らぬ振りで返すのが一番効果的だというデータを、颯介は今までの経験で弾き出している。
 海峰園の敷地に入り、真っ直ぐにジムに向かう。ガラス越しに、他の操縦士に混じってベンチプレスに勤しむ黎二が見えた。