Sparrow!!--#9:Evoke(05)

 濃い赤のウィンドブレーカーを着て、フードを目深に被っている。すらっとしているが細すぎない体躯。その人物の正体が分かった途端、翔は思わず公道に飛び出した。
「黎二!」
「――あ?」
 律儀に立ち止まり、振り返る。相変わらずの鋭い眼光がこちらを捉えた。
「いや、ええと」
 用は無いと言えば怒るだろうか。海峰園で見かけても話したりすることは無いから、正面から顔を見るのも久しぶりだった。改めておはようと言うのも何か違う、思えば妙な間柄だ。翔は口ごもり、頬にかかる雨の冷たさでやっと言葉を思いついた。
「……よく走るな、雨なのに。風邪引くよ」
「そんなヤワじゃない。お前こそ傘くらい差せ」
 別段機嫌が悪いわけではないようで、黎二はわずかに笑ってみせる。
「いつもこの時間に走ってるの?」
「今日はちょっと遅い。雨が止むのを待ってたけど、いつまで経っても止まねぇから諦めた」
「走るのを諦めるんじゃなくて、待つのを諦めたのか」
「当たり前だろ」
 おどけたその表情を見て、試合を控えた今自分が一体何を思って呼び止めたのか、翔はあっけなく忘れてしまった。不器用な黎二が笑顔を見せる相手は昔から限られていたし、今でも自分がその限られた者の中に入っていることが予想外だった。
 子供の頃に戻ったような感覚に安堵する。が、黎二はそんな翔の油断を打ち破るように呟いた。
「――今週末」
 翔の心臓が、ぎくりと打った。
「なんだ。びびってんのか?」
 気持ちが顔に出ていたらしい。こちらを眺める黎二の顔が「そっちから申し込んできたくせに」と言っている。昔馴染みの笑顔が、猛禽類が獲物を嘲る試合前の顔に急速に変わっていった。翔は動揺を堪えて首を横に振る。
「そんなわけない。そっちに勝って、俺も雛も、選手になる」
 目の前の黎二ではなく自分自身に言い聞かせているようだった。陸央には平然と言えたのに、当の本人を前にすれば緊張に胸がひりついて仕方がない。再戦をするからには勝つのだという決意が、数滴の雨で破れてしまう薄紙のように感じた。
「それまだ言ってんのか」
 可笑しさ半分呆れ半分の声で返す。そして、不意に真顔になった。どっどっと強く自分の脈を感じる。今黎二の目に、自分は幼馴染としては映っていない。降りしきる雨を真っ直ぐ貫くような視線に、翔は虚勢も甘えも言葉ごと飲み込んだ。こちらの返事を待たず、黎二は続けた。
「お前らが選手になるだのならないだの知ったこっちゃ無ぇんだよ。冴羽を倒した奴には負けられねぇんだ――覚悟しとけって、あいつにも教えとけ」


「あーっ!! うっそぉ!?」
「やったー!! 勝った!!!!」
 庭に面したトレーニングルームに、陸央と雛の声が同時に響いた。
「ちょっと待って今の無しだから。フェアじゃないもん。香坂さんいない時の試合はノーカンだよ!」
「えーっ! 何それ! 陸央くん、いなくても三タテ記録更新ってさっき言ってたよねっ? ねぇねぇっ」
「言ってない!」
「えーっ!?」
 二人がじゃれるのを尻目に、翔は今の模擬の内容を確認する。陸央対雛の三連戦の結果は上から十二対八、八対六、九対十三。最後のセットは雛の勝利だ。中盤に九対九の同点になったままだったが、ラストの一分で雛が四点を上げた。
 結局海峰園での実戦の模擬は中止になり、雛と二人で霧島家にやってきた。バーチャルでの模擬は風や気圧の体感までは受けることは無いが、基礎と応用を同時に学べる王道の訓練方法だ。
 コンピューター上の疑似的なものと言っても、海峰園に置き換えた数値がディスプレイに弾き出される。高度や速度、移動距離、レールの命中率。確かに、最終セットでの数値はいつもの雛の平均以上だ。連戦は集中力も使うが、雛は短時間のインターバルで勢いを出すタイプなのかもしれない。試合前にバーチャルの模擬を行ってみるか――と思う脳とは裏腹に、気持ちは今朝の黎二に飛ぶ。
 それまだ言ってんのか。軽く返されたこの言葉に、この半年の目標を突然ぽきりと折られた気がした。
「――翔。翔?」
 雛に肩を叩かれ、翔ははっと顔を上げた。
「あ……」
 考えているうちに、意識が飛んでいた。よほどぼんやりしていたのか、雛が心配そうにこちらをまじまじと覗き込んだ。
「どうしたの? 何かおかしかった?」
「いや、何でもない。勝って良かった」
 靄を払い笑って返すが、雛はまだ納得がいかないと言うように唇を尖らせている。そのまま口を開きかけた時、背後で扉が開く音がした。陸央の母親が、トレーにスポーツドリンクのグラスを三つ乗せてやってきたのだ。小柄で品の良い感じの彼女は、つぐみと同世代にしては若々しい。
「お疲れ様。はい、みんなで飲んでね」
「母さん、いいって言ったのに」
 陸央が苦々しい様子で言った。母は息子とよく似ているおっとりした顔を申し訳なさそうに緩める。
「だって、うちで練習してくれるの嬉しいんだもん。りっくんと仲良くなってくれて有難う」
「いちいちそんなこと言うなって!」
 こちらこそと返す前に、陸央が顔を赤くした。くすくす笑う母を、子供みたいな仕草で追い返す。その後で、あーあとわざとらしいくらい大きな伸びをする。
「僕はちょっと休憩。雛、今のノリでさ、周藤のAIでやってみなよ」
 操縦士二人で対戦することは当然として、データをインプットすれば特定の選手を模したAIとも対戦できる。スポーツドリンクを飲んでいた雛は、心持ち緊張した顔で頷いた。翔はキーボードを叩いて黎二のデータを呼び出す。
「いける?」
「うん。ブレイク試してみるよ」
「いや、ブレイクは――」
 今朝母に言われたことを伝える前に、雛は早々とトレーニング機器に跨りシールドをつけた。翔の目の前のコンピューターのディスプレイも、通常のFMに乗った時と同じ青一色に塗り潰される。すっと画面が変わり、限りなくリアルに近い海峰園の景色が現れる。対岸の搭乗台には、赤い装甲を持つ大きなFMがスタンバイしていた。
「翔、お願い。始めて」
 僅かに張り詰めた声が聞こえる。こうなってしまっては、彼女の集中を切るのはこちらにとっても難しかった。翔は観念し、カウントダウンのボタンをクリックする。


「――それじゃ、また明日晴れたら模擬で」
 玄関まで見送ってくれた陸央と母に手を振って、翔と雛は霧島家を後にした。駅までの遊歩道を少し遠回りして、雛の家の前まで送るコースだ。まだ降る雨の中、傘のために半端に距離を取って並ぶ。水溜まりを避けて歩きながら、雛がふふ、と思い出し笑いをするのが聞こえた。
「陸央くんのお母さん、優しいね」
「うん。ずっとFMのことわからなかったみたいなんだけど、最近試合観に来てくれるようになったんだって」
「いいなぁ。私、お母さんはまだ来てくれてない。一年経ってるのにね」
 試合を観に来る雛の家族は、大抵父親か兄だった。二人とはもう翔も顔馴染みだが、母親とはまだ会ってもいない。つぐみとは別の理由で、観戦に来ないのだった。
 沈黙が降りる。時折互いの傘が擦れ合い、その度に粒の大きな雨水が制服の袖を濡らした。何を思ったのか、突然雛が自分の空色の傘を閉じた。
「雛?」
「そっちに入れて」
「いや、駄目だ。荷物もあるし、濡れるし」
「平気だよ。じゃあ、私が傘持ってあげる」
「何でそこまでして」
「一緒に入りたくなったの。良いでしょ?」
 困惑する翔を置いて、雛はビニール傘を奪った。剥き出しの二の腕同士がぴったりと触れ合う。その部分から、血液が突然炭酸水にでもなったかのようなひりひりした甘い刺激が広がるのがわかった。どちらともなく押し黙る。炭酸の泡が徐々に熱になり、記憶と共に体内に流れていく。溶けてくっついた飴のように、時間はお互いを離れ難くし、歩調が徐々に遅くなっていった。
「懐かしいね。ね、一回だけこんな風にしたことあったよね。覚えてる?」
「うん――覚えてる」
 雛がFMを始める前だから、一年前のことだ。それほど大昔のことではないはずだが、懐かしいという雛の表現は、翔の中にある記憶にも不思議なくらいしっくりと嵌った。一年間で、本当に色々なことがあったのだ。
「ねぇ翔、ずるいよ」
 不意に、雛が口を開いた。