Sparrow!!--#9:Evoke(03)

「良かったじゃねぇか。次の相手が早く決まって」
「まぁね。もっとギリギリに申請しても良かったのに、これじゃあ対策して下さいって言ってるようなもんだよね。この前のめりな新人感嫌いじゃないけど」
 むしろ好き――と付け加えたその顔は、普段付き合いのある女連中には見せられないほど性悪なものだった。悪役レスラーかよ。自分のことは棚に置きつつ、黎二は呆れてベンチに戻る。ここは海峰園の一角にあるジムで、試合の日に限らず立ち寄るようにしているのだった。
 グリップを握り直し、気と身体を落ち着けて息を止め、持ち上げる。バーベル分の重力が腕にのしかかってきた。腕に力を込める。自らを構成する骨と筋肉と神経が絡まりあい、束になり、張り詰め、互いに軋ませ合う。この律動は、ホムラを操る時の感覚によく似ていた。
 重力や風圧、対戦相手の気迫。外部からの抵抗に立ち向かう時、黎二は強く自分が生きていることを実感する。逆境や刺激が無いと、自分は生きられないのではないかとさえ思う。
 息を長く吸いながら再度上げ、次は息を吐きながら下げる。それを十回で一セット。鍛える為というより、自分の身体の確認という方が近い。
 たった一日こなさなかっただけで、筋力やバランス感覚は鉛のように鈍ってしまうのは、全てのトレーニングにおいて言えることだ。言葉には死んでも出さないことを誓うが、黎二はそのことが恐ろしくて仕方がない。身体が自分の思い通りにならないことほどの恐怖、自分が自分の身体に負けることほどの悲劇は無いと、操縦士になることを選ぶ前から思っている。だからこうして定期的に全身の力でバーベルを動かし、自分が正常であることを確かめることは、黎二にとってはとても必要なことだった。
 走ることも同じだ。目の前にずっと続いて行く道、目標までの距離を走り切ることが、今の自分を確かめる手段になる。今日もこの後颯介と別れて走りに出る予定だ。行き先は、もう何年も前から決まっている。
 そうだ――と、黎二は不意に思い出した。昔、そのいつものゴールに到達した時、まだ小学生だった翔が偶然いたことが一度だけある。そして、あの頃はお互いに不確かであっただろう夢の話をした。FMマッチのチャンピオンになりたいと言う黎二に、翔もなりたいと返す。一人で走っていた道の先に知った顔がいた時の、くすぐったい、それでも確実に胸の内をちくちくと刺激する若い棘。自分とは違うルートで同じ場所に向かっている人間の存在を意識しだしたのは、きっとあの時からだ。まだ操縦士のなり方さえもわからない時だった。
 十回目を終えてベンチから立ち上がった時、端末を眺めていた颯介が「あ」と声を出した。
「黎二、すっごいよ。来週」
「今度は何だよ」
「望月が見に来るって。次の試合」
「――は?」
 一瞬だけ思考が止まった。颯介はやはり愉快そうに、整備士仲間の職員の名を挙げる。
「甲斐くんからの垂れ込み。整備士と一瞬に訪問予定だって。試合見てくのかな」
 望月と聞いて、すぐに顔が浮かばなかった。黎二好きだよね、と颯介はニヤニヤ付け加える。勿論わざとだ。好きでもそういう意味じゃない事ぐらい、こいつだってよく知っているというのに。
 望月瑠夏は、今期ではチャンピオンの那智清天に次いで注目されている選手だ。一度事故で故障した後、二年の療養を経て去年のシーズンで復活し、故障上がりとは思えない試合ぶりで星望杯まで駆け上った――という、ドラマのような経歴を持つ。
 しかし、事故をする前から彼女の滑空は圧巻だった。思い切りがいいというか、迷いが無いのである。軌道の選択、レールのタイミング、速度や高度の緩急の付け方、全てにおいての判断が早い。その対応力に付いていけず、大抵の相手は舌の上の飴のように転がされ、最終的に食われてしまう。そのくせ、その動作は水が流れるように自然だ。当時操縦士を目指しているだけの中学生だった自分にとって、あの時の瑠夏は那智に負けず劣らずの化け物にしか映らなかった。
 早く、水のような滑空。瑠夏のような操縦を理想にしていた時もある。しかし颯介とホムラを育てて行くうちに、自然と重くて大きい機体、アタック重視の戦い型にシフトしていった。黎二自身が元々好きな、自分が生きていることを確かめられるFMに。
「一日中いるかどうかもわかんねぇんだろ。特別に意識するようなことじゃない」
 面白がる颯介を尻目に荷物をまとめながら、黎二は努めて静かに返した。今の自分の相手は瑠夏でもないし、彼女に見てもらうのが試合の目的じゃない。
「望月がいてもいなくても、やることは一つだ。翔とあいつに勝つ」
 あいつ――翔と組んでいる操縦士。でかい口を叩く割に、初戦ではまともに戦えることすらできなかった――黎二が一番嫌いな類の選手だったのに、あろうことかこちらが勝てなかった立葵を下し、そこから調子をつけてきているあのヒヨコ。
 初戦の後、批判の声はあった。あんな可愛い新人にフォールは無い、レールの一発くらい出せ。外野は口々に言った。しかし年齢も性別も容姿も、空の上では全く意味の無い。あいつはチャンピオンになると言った。こちらに勝つのだとも。だから、それ相応の対処をしただけの話だ。そして再戦を投げつけて来たということは、今回もあいつは勝ちに来るつもりなのだろう。
「黎二、悪役レスラーの顔になってるよ」
 思わず口角を釣り上げた黎二に、側で見ていた颯介がぼそっと呟いた。


 先程から降り出した雨が強度を増したのか、こつこつと窓硝子に当たる高い音がした。
 雨が降ればFMマッチはできない。本戦の場合は予備日を考慮した日程が取られるが、元々余裕のない準戦は星望杯後に延期になった分の試合を行う。ただ、試合相手は組み直すことになる。もしこの雨が週末の試合まで続いたら。テーブルから窓の外を見て翔は思う。再戦の場合はどうなるのか、そういえば調べていなかった。
 申請をしてから日が経ち、水曜の朝だ。洗濯機を回し、決まった朝食を作り、母がいればコーヒーを入れる。日常的なそのルーチンを終え、ほっと一息ついたところだ。シーズンが始まってからは特に、翔が落ち着けるのは朝のこの時間だけになっていた。
 テレビのニュースが芸能からスポーツに変わり、今日の空模様とは一八〇度違う快晴が映った。思わず注視する。ディスプレイの右上奥から目の覚める速さでディスプレイに映り込んで来たのは、見覚えのある黒い流線型の機体だった。シリウス――望月瑠夏だ。手前に座って脚を組み、トーストを持ち上げていた母のつぐみがきゃっきゃと声を上げた。
「わっ凄い。見てて良かった。ほら翔、瑠夏ちゃんよ」
「ちゃんって……知り合いだったっけ」
「ううん。整備士の方とだけ」
「何だそりゃ」
 得意げなつぐみに突っ込みながら、そうなのかと素で思う。初耳だったが、瑠夏が所属する選手団体スターヘイズは星馬重工傘下のため、有り得ない話ではないと思った。瑠夏の整備士である春日井暁本人については、名前と去年から組んでいるという基本の情報しか知らない。服とか髪とか、見た目が結構派手だった記憶はあるが。