Sparrow!!--#9:Evoke(01)

 先に帰ってて、と言って祖父と別れたのはつい一時間ほど前の話だ。
 駅までの道もわかるし、電子切符だって一人で買える。僕一人で帰られる? なんて親切心を出した大人に聞かれることもたまにあるが、自分はもうそこまで幼くは無い。歳より小さく思われるのは、クラスで一番背が低いからだろうか。祖父に言われて頑張って牛乳を飲んでいるけれど、今のところ伸びる気配はうんともすんとも無かった。
 星望杯が始まるまであと一週間。九月も末になり、西日はこちらの感覚を鈍らせるほどに早くなった。空も空気もすっかり秋だ。息を上げて入り口前の階段を途中まで登り、翔はその頂上に立つ青いドームを見上げる。水彩絵の具で塗られたような淡い、夕映えの近い菫色の空に、藍よりも青い巨大な半球が映えている。散歩の老人やFM関係者らしき人とすれ違うが、さすがに混んでいると言うにはほど遠い。嵐、いや祭の前の静けさだ。
 自分は週末にもまたここに来る。今年も母がチケットを用意してくれたからだ。けれど、翔はもう昔のようにはしゃいで星望杯を見ることができない。見る目的、理由――あるいは夢が、なくなってしまったからだ。
「――翔?」
 聞き慣れた声が背後からする。振り向けば、階段のふもとに近所に住んでいる二つ上の遊び仲間が立っていた。今年の春から中学生になりあまり会わなくなっていたので、顔を見るのは久しぶりだった。
「黎二、くん」
「一人か? じいちゃんは?」
 言いながら、黎二はこちらに近付いてきた。上から見ていても、やっぱり中学生は大きいな、と思う。黎二は昔から背が高かったが、中学に入ってからは特に雰囲気が大人っぽくなった。おそらく学校指定のものではないスポーツウェアがよく似合っていてかっこいい。自分も、あと二年経てばこんな風になるのだろうか。
「僕、一人」
「帰れんのか?」
「か、帰れるよ」
 大人と同じことを言う。翔はむっとして答え、それから黎二も一人でいることに気が付いた。
「家から走ってきたの?」
「まぁ」
「すごいね」
「別に。途中で結構休んだし。めんどくせーから、帰りは電車にする」
 家のある北区からここ西区は、電車で言えば四駅も離れている。黎二が前々から走ることを日課にしていることは翔も知っているが、この距離を走るには一時間や二時間では済まないだろう。翔が感嘆している間に、黎二はこちらの段に追いついた。
「お前は何しに来たんだ?」
「僕は、ちょっと来てみただけ」
 自分から聞いておきながら、黎二はふぅんと気の無い返事をする。階段に腰を下ろし、そこの自販機で買ったのだろうスポーツドリンクのボトルを空けた。
「飲むか?」
「いいよ。僕、水筒持ってる」
 断りながら、翔も黎二の横に座った。リュックから祖父が入れてくれた水筒を取り出して飲む。眼下の広場には、所々に出店用のテントが畳まれ置かれている。その後ろでは、星望杯に向けた植木の手入れがされていた。まばらに開花した金木犀の香り。冷たすぎず暖かすぎない、柔らかな風。気持ちの良い初秋だ。ボトルを置いて肩をほぐしながら、そういえば、と黎二は口を開いた。
「航って今何してんだ?」
「ええと……今朝から、バイクで遠出してる。しばらく一人がいいって」
「へぇ、良いな。俺もでかくなったらああいうバイク乗りたい」
「大きいし、重いよ」
「それがいんだよ。重い方が良い。自分にどんだけの力があるかわかるから」
 今度は翔がふぅんと応えた。翔もバイクは好きだ。けれど造るのに興味があるというだけで、乗ることは意識していない。重い方が良いという黎二の好みも、今ひとつピンと来なかった。
「けど、ラークはそんなに大きくないよな。航ってでかいのが似合うと思うんだけど」
「……うん。そうだね」
 何気ない黎二の返しに、翔はまた気が沈んだ。
 ラークは航が乗るFMの名前で、航は翔がもっと小さい時から家族のように親しくしてきた人物だ。彼はFMマッチの選手で――正確には、元、だが――二年前までは本戦で出ていたが準戦に降格し、再び昇格することを目指していたが、年齢による衰えには叶わなかった。結局ついに先週の準戦の最終試合で、十数年の選手生活に自ら幕を下ろした。
 もう一度マリンドームに行きたいとあれほど言っていたのに、だ。
「……まぁ、今言っても遅いんだけどさ」
 失言だったことに気が付いたのか、黎二はすぐにフォローした。普段から口が良くない、ぶっきらぼうで不器用な彼にしてみれば、少し珍しいことだ。
「うん……」
「何しけたツラしてんだよ」
「だっ、だって。航と一緒にチャンピオンなるって、約束してたのに」
「はぁ?」
 唖然とした。
「お前、航と選手になるつもりだったのか? 整備士になって?」
「そ、そうだよ」
 その黎二に、翔は口を尖らせた。
「航は、ずっと操縦士をするって思ってた」
「おいおい、FMの操縦って結構難しいらしいし、若いうちしか乗れないんだろ? 無理だ。お前待ってたら、航なんてオッサンになっちまうぞ」
「わかってるよ。わかってるけど……」
 自分が非現実的なことを言っていることは、翔だって重々承知している。もう五年生なんだから、夢と現実の区別ぐらいつく。けれどそれと、それを受け入れることは別の話だ。
 翔が生まれる前から選手をしていたのだ。翔にとってFMに乗っていない航など、例えばピクルス味のジュースくらい想像できない。し、想像もできないものをすぐに飲み込めというのも無理な話だ。ただの駄々だとわかっていても――もう五年生だ、と意地を張ってみても、結局自分は、大人の世界の酸っぱさや苦さをまだ味わいたくはないのだった。
「それって、絶対航じゃないと駄目なのか?」
「えっ?」
 翔が思い付きもしなかったことを、黎二が事もなげに言った。酸っぱいジュースが嫌なら、別のジュースを探せばいいというような軽い口調だ。
「お前だけでもなればいいんじゃね? 整備士はずっとできるんだから。操縦士は航じゃなくても、お前だけでもチャンピオンなったら航も喜ぶだろ」
「……そうかなぁ」
「そうじゃねーの。多分だけど。航の夢の手伝いじゃなくて、お前自身の夢にすればいんじゃねぇのか」
 黎二は階段から立ち上がり、止まって鈍った身体を伸ばした。
「俺も、高校に行ったらFMの免許取る」
「選手になるの?」
「颯介が整備したいって言ってるし、あいつが免許取るならやろうと思う。お前も選手になるなら、試合くらいしてやっていいぜ。ま、どうせ俺が勝つけどな」
 またまた珍しいことに、黎二が屈託無い笑顔を見せた。驚きとほんの少しの嬉しさに、翔は思わず跳び上がって立った。
「僕が勝つもん」
「ほんとかぁ? 俺はチャンピオンにもなるぞ」
「僕もなる!」
 航のいない、行く道を塞がれたような鬱々とした気持ちは消えていた。黎二は翔の肩を軽く叩き、進む方を示す。マリンドームにもっと近付いてみようという合図だ。彼に導かれながら、翔は夕暮れの迫る階段を一段また一段と登って行った。


「行くよ、翔」
「うん」
 送信と書かれた緑のボタンを、雛の指がタップした。
 緑がオレンジになり、完了という文字が現れる。途端に雛がいからせていた肩を落とした。緊張と入れ替えに、安堵と不安がそこにのしかかったのが見て取れる。翔も息をつき、今二人がけで書いていた文章を改めて見返した。
 協会のサイトにある専用フォームはやけにポップな色調で、デフォルメされたFMの絵まで載せられた、まるで小学生のふれあい教室の参加者でも募っているかのようなノリだ。いざと勇んでいた二人の気持ちは、その能天気なムードに出鼻をくじかれる。作った本人も、どんなムードにするか散々悩んでいたのだろう形跡がありありだ。それでも、メッセージを入れるにつれて昂まりを取り戻したばかりだった。