Sparrow!!--#8:Avoid(14)

「そろそろ着替えて。スタンバイしましょう」
「うん」
 頷きながら、立葵は動かずにまだ目の前の試合を見ている。濃いピンクとオレンジの鮮やかな二機が振り子のように近づいたり離れたりを繰り返し、何度目かの邂逅で互いのレールが交差した。
 呼びに来てみたとはいえ、少しくらい観戦に耽るくらいの時間はあった。朝から気を張り続けていた頭を休ませながら、茉莉は立葵の気が済むのを待つ。試合終了のサイレンが鳴り会場全体が弛緩する中で、彼はやっとフェンスを離れた。
「今日――俺は、勝てるのかな」
「え?」
 初めて聞くような弟の台詞に、茉莉は思わず彼を仰いだ。
「どうしてそう思うの」
「……いや、大した理由はないけど」
 立葵は一瞬だけこちらを見て、ついと通路の方に向かった。慌ててすぐ後ろに付く。観客や他の選手に交ざりながら、声を抑え気味に話す。
「大したことないわけないと思うけど。そんなに弱気なことなんて、今まで無かったじゃない」
「昨日、宝生さんと会ったんだ」
「何か話したの?」
「俺なんか、怖くないって」
「え?」
「本気を出さない相手は怖くない。勝ちに来るってさ」
「何よ、それ」
 無性に腹が立った。宝生雛といえば、まだ一勝もしていない初心者中の初心者操縦士だ。立葵との実力差など分かりきっているのに、何故そんな立場の彼女が大口を叩けるのか、茉莉には理解不能だった。
 憤るこちらに対し、立葵は黙ったまま歩を進める。
「そんなことを言われて弱気になってるの? 立葵は怖いの? あんな、」
 あんな弱い子――と言いかけ、一度声を飲む。
「今年デビューしたての子相手の時だけ、そんな弱気になるの。他の……本戦候補の選手ならまだしも」
 立葵は完全に無敗というわけでもない。勝利にはさほどの拘りが無いために、単純にレベルが上回る選手には白星を譲ってしまうことがある。しかしそんな時でも、一度だって弱気な素振りは見せたことは無かった。
――いや。
 見せる必要なんてなかったのだ。立葵は、今まで一度だって相手に「挑戦」をしたことがないのだから。
 茉莉は再び続けかけた言葉を引っ込めた。立葵を責める自分の口調が昔の母親とそっくりだったことに、言った後になって気が付いたからだ。気弱で優しい弟が自分の思い通りにならないことに苛立ち、責め立てる傲慢な母親の声を、心底嫌いながら育ってきたというのに。
 茉莉が顔を俯かせたその時、背後に別の気配が近付いてきた。子供の高い声が上がる。
「あ、あの、すみません。冴羽選手」
 振り向くと、小学生くらいの少年がじっと立葵を見上げていた。
「何?」
「ええと、僕――ファンです」
 少女のように華奢な少年が、顔を真っ赤にして言った。FMを始めて三年経つが、立葵がこんな年頃の子供に話しかけられるのを見るのは初めてだ。当然、立葵自身も目を見開いて固まっている。困惑しているのだろう。その証拠に、たっぷり二秒ほど少年を見つめ、ファンを名乗る者に対してあまりに卑屈な質問で返した。
「……俺のどこがいいの?」
「ぜっ、全部です。翡翠は小さいのに、相手が大きな機体でも堂々としていて強いし、かっこいい。あと、あの……前に、ウェブにあったインタビューを見て」
「ああ」
 そんなものもあったなと言うふうに、立葵が頷いた。茉莉も知っている。去年のシーズン序盤に協会のウェブサイトで行われたインタビュー企画に、立葵が呼ばれた時のものだ。そこで彼は選手になる以前、数年の引き篭もり生活を送っていたことも、包み隠さずに話している。反響は勿論無い訳ではなかった。両親に至っては恥知らずだと憤慨していたし、茉莉自身も当時は彼の意図がわからず不安にもなった。
 けれど今にして思う。立葵はあの時、自分の部屋の窓を開けようとしていたのではないだろうか。
「僕も去年まで、ずっと部屋から出られませんでした。でも冴羽選手のことを知ってFMに興味を持って、ここに通い出したんです。来る度に勇気をもらって、学校にも行けるようになりました。本当に、感謝しています。これからも応援しています。いつか、本戦に行って下さい」
 少年の無邪気な激励に、茉莉は気付かれないほど小さい溜め息をつく。いつか本戦に。その言葉に、立葵が頷くとは思えなかった。けれど――
「有り難う。頑張るよ」
 握手を求めてきた少年の手を立葵は穏やかに握り返した。思わぬことに、茉莉は目の前の光景を凝視する。手が離れた後も、少年は興奮した面持ちで何度も礼をした。
「初めて言われた」
 去っていく小さな背中を、立葵自身もまだ信じられていないような、生まれて初めて花の開くのを見た子供の顔で見送った。丁度鳴った試合開始のサイレンで我に返り、プラットフォームに向かって再び歩き出す。茉莉は一拍遅れて後を追った。
「続けるの? 来年」
「いや、わからない」
 立葵の曖昧な返事に、「そう」と茉莉は肩を落とした。少年とのやりとりを見て、立葵はFMを続ける気なのだと一瞬期待してしまったのだ。が、所詮リップサービスだ。「頑張る」という常套句で応援していると真摯に伝えてきた少年の気持ちを否定せず、尚且つ傷つけない、これ以上なく立葵らしい回答である。
 自分のしおらしさが嫌になる。あの時無理して続けなくていいと言いながら、実際は立葵の拒否の言葉を待っていた。例え素振りでも自分から折れてみれば、立葵とはいえ焦るのではないかと思っていたのだ。しかしそれも不発に終わり、使えもしないカードを見せびらかせる自分の滑稽さだけが残った。
 結局、立葵に依存しているのは自分の方だ。それが気付けただけでもいい。言い聞かせるように胸を押さえ、茉莉は今季限りで終わることを覚悟した。他の操縦士と組めばいいと周りは言うだろうが、元々立葵のために整備士になった茉莉には、彼以外の操縦士と組むビジョンなど見当たらない。
 しかしそんな茉莉の方を振り返らず、立葵は続ける。
「俺は……真剣にやって負けた時の自分が、想像出来なかった。また昔みたいに全部嫌になるんじゃないかって思うと怖くて情けなくて、それを避けることばかり考えて、自分の目を塞いでたんだ。FMが好きだってことも、それが続ける原動力になるなんてことも、いつの間にか忘れてた。それに今、思い出せて良かった」
 どういうこととこちらが問う前に、突然目の前の背中が止まった。立葵は振り向き、しばらくぶりにこちらの目を真っ直ぐに見る。
「姉さん、今までごめん」
「え――」
 何のことだかもわからなかった。ぽかんとする茉莉に対し、ほんの少し苦々しい面持ちで弟は続ける。
「俺の勝手でずっと振り回してた。姉さんが何も言わないでいてくれたのに、甘えてた。無理してたのはそっちだったのに、俺はそれに気付いていて知らないふりをしてた。自分を守るので精一杯だったから……。今日は俺も本気で勝ちに行く。そうしたら、これから自分がどうしたいのかもはっきり分かる気がするんだ。最後まで、付き合ってくれる?」
 少し照れくさそうに言う立葵の目の色は、これまでとは明らかに違っていた。
「勿論よ」
 茉莉はゆっくりと頷き、女らしくなく不格好で、綺麗なマニキュアの似合わない――けれど決して嫌いではない自分の両手の指を、掌の中に大切に折り込んだ。