Sparrow!!--#8:Avoid(13)

 そして――そこまで言って我に返る。ただの後輩であるだけの雛に、こんな個人的な胸の内をこぼしても良いのだろうか。仮にも、彼女は次の対戦相手だというのに。
「……私の話、していいですか」
 遠くの空に視線を彷徨わせている間に、雛が口を開いた。彼女自身も、こちらではなく徐々に赤みが指す空を仰ぎながら、少し照れくさそうに話し始める。
「前、ピアノやってたんです。最初は好きで初めて凄く楽しかったけど、人と比べられるのが嫌で弾くたびに冷めて、結局辞めちゃって」
「そうなんだ」
「でも、辞めてからの方が辞めるまでよりもずっと辛かったです。長く続けてきた自分を自分で否定したみたいで虚しかったし、もっと上手くなるように頑張れば良かったって後悔もしました。私って何のためにピアノを続けてたんだろって考えたりもして。FMに転向した今だって、周藤さんにも陸央君にも他の人にも、精一杯戦っても負けてばっかりで、前の私のままだったらもう早速嫌になってたかもしれない」
「……それでも、嫌じゃないんだね」
「はい。ピアノよりもってわけじゃなくて、ピアノの分まで大好きです。FMのことが大好きで、私は変わったんだってことを皆に見せたい。だから私は諦めません。これから歳を取って飛べなくなっても、です」
 雛はそこで一度話を区切り、冴羽さんは――とこちらに向き直った。
「機体と整備士さんのおかげで強いって言われましたけど、ここまで続けてきたのは貴方じゃないですか。負けたら価値がなくなるって、本気で思ってるんですか? 私には、冴羽さん自身の価値観に思えません。どうしてそんな風に思うのかはわかりませんが、本心じゃないことで蓋をしてしまえば、冴羽さん自身が……今まで頑張ってきた貴方が、浮かばれない。まだ本戦に行ってもない、誰にも非難されてもないのに、終わりにしないでください。今までの自分を大事にしてください。悩みながらも辞めないのは、FMが好きだからですよ」
「――そう、なのかな」
 つられていた。雛はこちらをじっと見上げ、僅かに口角を上げ、すぐにまた真面目な顔になった。
「私、自分はまだまだ貴方ほど強くないってわかってます。でも貴方に勝てるまで諦めません。もし明日の試合に負けたって、何度でも再戦を申し込みます。勝つまで挑戦し続けます。嫌だって言われても、手加減なんてしてられないくらい追いかけます。貴方がFMを辞めてしまわないように」
「な――」
 意味がすぐに飲み込めず、立葵はゆっくり首を横に振った。
「訳がわからない……再戦は申請できる回数に上限がある。そこまでして繰り返すなんてルール的に無理だ。馬鹿馬鹿しい」
 思った通りのことを返した。再戦は相手一人につき一度しか申し込めないため、今彼女が言ったようなことは不可能だ。しかし、雛は怯まない。そうして当然だとでも言うような態度のまま、毅然と応える。
「じゃあ、周藤さんの時みたいにわざと引き分けにしますか? ……どれだけ酷い行為か、冴羽さんだってわかってるはずですよね」
「それは、」
 言葉に詰まった。雛は立葵の返しを待つ。しかし、続けられることなど何もない。彼女が言った通り、自分自身の行為に少なからず罪の意識があるからだ。よく磨かれたペティナイフの光を目の中にちらつかせながら、雛は続ける。
「再戦が無理なら、明日は勝ちに行きます。本気を出さない相手なんて、私にはちっとも怖くないから。ただ……そんな理由で、貴方にやめて欲しくないです」
 その声は、最後には掠れていた。立葵が応える間もなく深く頭を下げる。
「明日はよろしくお願いします。失礼します」
 雛は階下に続くエレベーターの庇の方に駆けていった。立葵は気が付かなかったが、彼女の整備士である橘川翔が迎えに来ていた。目が合い、彼の方から軽く会釈を寄越す。雛とは違いあまり感情を表に出すイメージは無かったが、今はさすがにやや緊張した面持ちをしている。
 庇の中に消えていく二人を見送り、立葵はまた――まるで翡翠と共に空にいる時のような、長い耳鳴りを覚えた。


「ごめん、待ったよね」
「いや、別に……でも、あんまり時間がないから早く行こう」
 下りのエスカレーターの上で、前に立つ翔は淡々と言った。食品や雑貨が無差別に詰まったエコバッグを肩から提げている。試合前の緊張を少しでも和らげようと、気分転換のつもりでここに立ち寄ったのだが、運が良いのか悪いのか結局立葵と逢ってしまった。
「あのさ雛……さっき、冴羽選手に言ってたことだけど」
「えっ!? う、うん」
 思わず声が裏返る。翔が立葵との会話を聞いていたのには気付いていたが、どの辺りが彼の琴線に触れたのか雛には分からなかった。翔の知らない所で立葵と二人でいたことが、今更ながら後ろめたい。けれど、翔は咎めるというより、困惑の方が強い様子だ。
「何度でも再戦するとか、方便でも簡単に言わないで欲しい。冴羽選手の言う通り回数も決まってるのもあるけど、一応あれには整備士の意向も考慮されるし、もう試合数も少ない。雛のお父さんとの約束もある……それに、試合前に相手を挑発するのも良くない」
「――ごめん」
 雛は素直に反省した。そうなのだ。今の自分は、立葵を引き止めるだけに試合数を使える立場ではないし、実質挑発通りに勝てる技術もない。先程立葵に言ったことは、黎二の言葉を借りれば――というより黎二が指したとおりの、「余計なこと」に他ならないのだ。浅はかな発言だったと、雛は階下に運ばれていく自分の爪先を見る。けれど、目の前にある翔の背中は意外な言葉を返した。
「まあ、勝てばいいんだよな」
「えっ?」
 雛は目を上げた。彼は肩越しに振り返る。
「明日。雛の言う通り、明日勝てば何の問題もない」
 少し笑っている。その澄んだ泉の目に移る自分の顔も、徐々に明るくなっていくのを雛は見た。
「――うん。勝とう」


 試合順が一桁の場合は、前日の夜の内に機体を搬入しておく。
 正式なルールではないが、暗黙の了解として前々からあることだった。一桁の整備士達はプラットフォームが解錠される七時頃に集まり、機体の最終調整と移動に取り掛かる。第一試合が始まる九時ジャストから、日程は水が流れるごとく緩やかに、且つ急ぎながら進む。元々窮屈なタイムテーブルでやっているため、選手単位以外でのチームワークが必要とされるのだ。
 もう三試合目の後半に差し掛かっている空を視界の隅に入れ、茉莉は溜息未満の息を細く吐く。朝は家族で一番早く起き、軽い朝食に加えうっすらと化粧をして家を出てきた。おかげ頭はすっきりしている。病は気からという言葉もあるが、今日の自分の体は気持ちとは裏腹にすこぶる調子がいい。
 昨夜に搬入しておいた翡翠を指定の位置に納めて作業をひと段落させ、茉莉はスタンドに向かう。今日は南側の陣営だと向こうも知っているから、いる場所はだいたい目星が付く。七月に入ってから本戦夏大会の煽りで一般客が少なく、オレンジ色の席はいつもよりも埋まりが悪い。仕方がないこととはいえ少し落胆してしまうが、そのおかげで探し人は見つかりやすくなっている。
「立葵」
 席にも座らず、フェンスの傍でぼんやりと佇んでいる背中に、茉莉は平坦に呼びかけた。