Sparrow!!--#8:Avoid(12)

 海から吹き付ける風が髪をかき上げ、そのまま過ぎ去って街へと消える。
 視界に広がる天馬の町には、色とりどりの数えきれない建物が敷き詰まっている。人の流れの激しい中心部から目を外すとやや落ち着いた住宅街があり、体を反転させて海の方を向けば、青いマリンドームの屋根がぬっと突き出ている。FM本戦の夏大会を控えた街並みは、まるで羽化した直後の蝶にも似た奮えをたたえている。心地の良い、祭の前の静けさ。前髪を払う風に目を閉じ、立葵はそっと深呼吸をした。
 時刻は十七時を回り、夏の空には漸く西日が差し始めた。背後で子供の声が上がる。無邪気に追いかけ合う数人の子供や自分と同じように涼んでいる老人の姿が、この平らで広々とし、開放感に満ちた四角形の上に散らばっている。
 ここは市の中心で群れを成す商業施設の屋上だ。市の住人達には空中庭園と呼ばれており、名前の通り植物の栽培も行われている。フェンスで唐突に切り取られた、空に囲まれた緑の庭。立葵のランニングの折り返し地点だ。自宅から適度に距離があるし、引き篭もっていた間に造られたために最近まで知らなかったが、何となく好きな場所で、特に夕方に来ることが多いのだった。
 無理しなくていい。続ける必要はない。姉にそう告げられてから、ちょうど二日が経過した。土曜日。試合はもう明日に迫ってきているが、焦燥は特に起きなかった。いつもながらの寝起きのような、退屈とも憂鬱ともとれない気怠さが体内に充満している。あれから姉とは、このことについての話はしていない。無かったことになっているのではなく、こちらの返答を待たれているのだ。退くか進むか。これまでだらだらと先送りにしてきた二択を前に、立葵はようやっと迷い出したのだった。
 迷っているということは、自分はもしかしたらもう終わりにしたいのかもしれないな――という考えが、ふっと頭に飛び込んできた。心の底から続けたいなら、決して迷ったりはしない。黎二や雛のように真っ直ぐ上を目指しているものは、足元や周囲がどうであろうと先に進む。しかし、自分は下ばかり見ている。その所為で、今自分がどこにいるのかさえもわからない。
 薄く敷かれた芝生をつついていた鳩が飛び立ち、立葵の横をすり抜けて地上へと降りて行った。その軌道を追えば、駅前のコンコースに続く広場が見下ろせる。噴水の周りに行き交う夕方の人の群れが、不意な目眩に揺れた。
 反射的にホバリングの重力を感じたものの、翡翠がここにあるはずもない。浮いた感覚は一瞬で過ぎ去り、代わりにぞっとするほど冷えた血液が胸に流れた――と、
「わぁあっ!!」
 聞き覚えのある声が背後で上がり、突如自分以外の力に引き戻された。それは決して強くないが、立葵の身体は素直に支えられる。ふらつきを抑えて体勢を整え、力の主の方を向いた。
「……何、宝生さん」
「す、すみません。びっくりした……落ちちゃうかと思って」
 その主――雛は未だに顔を蒼白にさせ、息を上げていた。彼女がここにいたのは偶然なのだろうか。最初からこちらに声をかける気だったのかはわからないが、落ちると思ったのは本当なのだろう。
「大丈夫。高さには慣れてるんだし。ちょっと下が気になっただけ」
 落ちても構わないと、本当は少しだけ思っていた。けれどさすがにそこまでは言えない。立葵は息をつき、不意打ち過ぎる邂逅に言葉を探していると、雛が見慣れない服装でいることに気が付いた。いつもの無骨なトレーニングウェアやライダースーツからは連想できないような、爽やかな白いセーラー服とブルーグレーのスカートを着ている。姉が高校生の時に着ていた制服と同じで、この近所にある海央大付属高校だ。
「宝生さん、学校帰り?」
「あっ、ええと――そうです、これからシミュレーションなんですけど、翔が用事があるからって今下にいて……私は、ちょっとここに来たくなったから」
「よく来るの?」
「去年までは、友達とよく来てました。FM始めてからは機会が無くて、一年ぶりです。ちらっと見るだけにしようと思ったんですけど――」
 そう言って、雛はちらとこちらの様子を伺った。立葵は立葵でふと視線を街の方に逃がす。なんとも言えない気まずさだ。思えば、試合の前にこうして相手と一対一で会うことなど初めてのことだった。雛は不意に真面目な顔をし、改まった様子で頭を下げた。
「冴羽さん、明日は宜しくお願いします」
「こちらこそ」
「あの、この前の話なんですけど」
「この前?」
 前に彼女と会った時の会話を思い出す。
「あー何だっけ。FMが好きか嫌いかってやつ?」
「そうです。私ずっともやもやしてて。冴羽さん、自分では否定しますけど……私には、凄くFMが好きなように見えます。違いますか?」
「さぁ……」
 立葵は困惑し、実に曖昧な返事をした。何故答えを出したがるのだろう。黎二のように、物事に白黒をつけないと気が済まないタイプなのだろうか。立葵としては、今までFMが好きで続けていたのかどうかなんて考えたことが無かった。
「冴羽さん、自分だけじゃなくて他の人のこともよく見ていて、アドバイスもできて――なんて、興味もなくやってる人には、ここまでできません。私、冴羽さんと初めて会った時のこと今でも覚えてますよ。嬉しかったから……またまだ、教えて欲しいことも沢山ありますし」
「俺、来年にはいないかもしれないよ」
 立葵の掠れた呟きは、突如吹き付けた風に煽られて空に消えた。けれど、雛の耳には届いていたらしい。手を離しかけているこちらに気付かず、彼女は少し嬉しそうな顔になった。
「本戦に行くんですね」
「いや、行かない」
「え?」
「辞めようかと思ってるんだ、俺。今年限りで」
 自分の声に耳を疑うくらい、あっさりとその言葉は出た。雛は目を丸く見開く。
「何で」
「本戦に行く気が無いからかな」
「どうしてですか」
 どうして、って――にわかに苛立ち、それを表に出さないために立葵は雛から顔を背けた。
「宝生さん、あのね……本戦に行くだけが選択肢じゃない。準戦で見切りを付けて辞める選手は少なくないし、それぞれに本人にしかわからない理由がある。上だけを目指して頑張ることは大切だけど、いつでもそれが一番正しい選択だってことは無いよ」
「それはそう、ですけど……」
 雛は俯き、少しの間黙り込んだ。再度風が吹き、空中に似合わない木々の揺れる音がする。
「質問ばっかりですみません。でも、聞いていいですか? 本戦に行きたくない理由」
「――……負けたくないから」
「それは、私だって」
 そっちのそれとは違うという意味を込め、立葵は首を横に振った。
「本戦に行けば、自分より強い選手は沢山いる。その中に混ざるのが面倒なんだ。企業だって絡んでくるから、今以上に試合が重い。でも準戦は楽だ。たとえ翡翠と姉さんのおかげで勝ってるのだとしても、君みたいな初心者相手に強豪ぶってれば良い。上を見ない振りをするのは簡単だし、居心地がいいからね。だから、周藤が苦手なんだ。あいつの言う通り、先週の試合だって俺がわざと引き分けにした。再戦をしたくなかったから」
 正直に言うと、あの時は直前まで勝つつもりでいた。相手で匙加減を変える立葵から見ても、結果は最後までわからない程互角の試合だったのだ。しかし、シールド越しにこちらを見ているであろう黎二の目が、最後の最後で立葵の選択を狂わせた。どこまでも真っ直ぐ勝利に食らいついてくる視線に、立葵はどうしようもなく怯えてしまったのだ。
「けど、そんな理由でずっといられても邪魔なだけだろう? 姉さんにも迷惑かかってるし。だから、もうすっぱり辞めにするんだ」
「でも、FMしか無いんですよね」
「無いからだよ。無いから俺は――本気を出して、精一杯やった上で負けるのが一番怖い。そうやってやる価値を否定されたら、もう二度と飛べなくなる気がする。本戦に誘われたのは光栄だったし、姉さんのことを思うと上がるべきだった。けどどうしても、勇気が出なかったんだ。目の前の柵を飛び越えて、向こう側へ行く勇気が……」
 フェンスに身を委ねたまま、立葵は日の傾きかけている夏の空を見た。真昼の空はすぐ近くにあると錯覚するのに、夕映えになると途端に距離を感じる。そのことに、今になってやっと気付いた。