Sparrow!!--#8:Avoid(09)

「いつもより早いね」
「四限が休講になったの。だから今日は、休憩で良いかなと思って」
 たまにはね。姉はそう言って少し笑い、テーブルの上に放られていたエコバッグから、玉葱やじゃがいもをごろりと取り出した。
「お母さん、今日は遅くなるんだって」
「へぇ」
「夕食も私が作るから、待ってて」
「うん」
 他愛もない、茉莉にとっては意義があるが、立葵にとってはさして意味の無い一方通行の会話が続く。今日はカレーにするね。うん。ルーが特売だったの。へぇ。中辛で良かったよね。うん。牛肉が売り切れていたから鶏肉にしたよ。うん。
「週末の相手、通知されたね」
「――ああ」
 突然出されたFMの話題に、機械的に繰り返していた生返事を引っ込める。
「いつも通りで良いよ。どうせ勝つんだし」
 意識したつもりは無かったが、驕りきった口調になった。
 昨日自ら雛に言ったことを思い出し、胸の内だけで自嘲する。何が「勝てたら良いね」だ。白々しい。あの時は純粋にフォローのつもりだったのだが、実際にその相手が自分になってみればどうだ。こうやって、自分が勝つことを前提に話をしてしまう。結局、自分は彼女を見下しているのだ。
 雛だけじゃない。諏訪や黎二、それ以外の相手にだって、自分に対してどう思っていて、どのくらいの能力を持っているのか、立葵は自分自身の経験と技術をものさしにして計る。勝てる相手と、今の自分では到底及ばないであろう相手を区別し、後者には最初から白星を譲る気でプレーする。あの相手には最初から負けが決まっていたのだと、自分を納得させるのだ。そうやって、負けた時のダメージを最小限に抑える。そして前者は、そんな大きさの割に薄っぺらい自尊心を支えるための糧だった。
 しかし、今回に関しては姉もそう感じていたらしい。無言で頷き、茉莉はカレーを作る準備を始めた。客観的に見ても、雛はまだ立葵に敵うほどのレベルではない。奇跡でも起きない限り、こちらが負けることは無いだろう。
 会話はやはり途切れた。茉莉はこちらを見ることなく、丁寧に野菜を切っていく。父親が食べられないという理由で、冴羽家のカレーは人参の代わりにパプリカを使う。何となく部屋に帰りそびれた立葵は、半分になったパプリカの種を取りにかかった。二度目の沈黙。息苦しささえ感じるが、下手に破ることもできず、しばらくお互い無言で作業した。
「ねぇ立葵――来年、どうする?」
 立葵の作業がもう終わる段階に入り、不意に姉が口を開いた。まるで昼に食べたものを話すような軽い口調だが、内容は立葵にとっては鋭く重い。すぐに答えられない問いだと、姉は知っているように思えた。わたを取ったパプリカを置いて姉を見る。じゃがいもの皮を剥く手元を見たまま、茉莉は心無しが微笑みながら続けた。
「もうすぐ本戦候補も出るじゃない。私達今のところ調子もいいし、入ってると思うの。自分で言うのも何だけど……」
 笑みは一瞬だった。姉は表情を引っ込め、皮を剥いたじゃがいもをとんとんと一定の速度で切っていく。包丁を使い慣れていない所為か、手元はおぼつかない。立葵は完全に手を止め、漫然とそれを眺めた。時間だけが過ぎていく。
「姉さんはどう思うの」
 やっと反応を返せた。姉は包丁の音を止め、姉はゆっくりとこちらを向いた。
「決定権は操縦士にあるから、立葵に合わせるよ」
 軽い口調とは裏腹な、慎重に何かを見計らっている目だ。
 姉弟ではなく「選手」という関係になってから、特に立葵がスターヘイズの誘いを蹴った時から、茉莉が顕著に見せるようになった目だ。その奥の部分にはしっかりと意思――本戦に行きたいという気待ちがあるのに関わらず、態度には決して出さない。立葵はそれに気づかないふりをする。一方で、祖父に指摘されれば言い返せない程の後ろめたさもある。はっきりと言葉に出さないのをいいことに、立葵は姉に甘え、答えを先延ばしにし、尚且つ振り回しているのである。
「まだ時間あるし、考えておくよ」
 言って、立葵はこの場から去ろうと背を向けた。
「――しなくて良いよ」
「え?」
 上手く聞き取れず振り向いた。姉は既に俯き、表情は分からなくなっている。じゃがいもを終えてパプリカに移行しながら、茉莉はまた静かに口を開いた。
「無理しなくて良いよ。私がいるからって、合わないことを続ける必要なんて無いんだから」
 肩越しに振り向いたまま、立葵は姉の横顔を凝視する。意味を理解するのに数秒を要した。そしてその意味はゆっくりと胸に沈み、静かに底にたどり着く。いつか来るだろうと思い、反面来ないことを願っていた言葉だ。
 そうだね、もう無理なんだ。嫌だ、俺はまだ続けたいんだ。二つの答えが、胸の内でシーソーのように上下運動を繰り返した。どちらに傾けば納得が行くのか、自分でもわからない。
「……後で食べるから、置いといてよ」
 答えにも気休めにもなっていない返事をし、立葵は背を向け廊下に出た。自室に戻り半開きのカーテンを締め切り、それでも部屋にこぼれ落ちてくる西日を避けるように座り込む。
 FMをやめる気はない。自分にはこれしかないのだから。けれど、本戦に行く勇気もない。自分よりも劣る他の選手を見下すくせに、準戦という箱の中から飛び出せない自分の滑稽さに薄い笑みが漏れた。
 一人で膝を抱えて、立葵は昔の自分に戻っていく。静か過ぎる部屋に似つかわしくない、ノイズのような耳鳴りがした。


 元々古い建物である海峰園の中でも頭一つ質素な事務室のドアを、翔は軽くノックする。
 雛達と別れ、国枝を探して海峰園の中を文字通り一周した。顔見知りの職員に聞いたところ見事な行き違いで、本人はミーティング後さっさと事務仕事に移ったらしい。薄いアルミのドアの前で耳をすませば、がさごそと誰かが動く気配がした。
「ふぁあい」
 欠伸混じり、というか殆ど欠伸の声が返ってくる。失礼しますとドアを開けると、国枝は奥のディスクでコンピューターのキーを叩いている最中だった。珍しくややレトロなデザインの黒縁眼鏡をかけている。バックパックから彼に手渡すはずのメディアケースを取り出しながら、翔はディスクや機材や資料でできた獣道を慎重に進んでいった。
「お疲れ様です」
「おーお疲れ。ちょっと待っててくれよ」
 翔が持つものを見て、国枝は軽く手を上げた。言いながら、画面に顔を近づけたりを繰り返す。
「最近、画面が見づらいんだよ。やべーな老眼かな?」
「まだ早いでしょう」
「いやいや、俺だってもうアラフィフだぞ。あ、因みにこれには度は入ってないからな。まだギリギリ大丈夫だから」
 眼鏡を外し、国枝は神妙な顔で付け足した。どうやらブルーライトカットのものらしい。その手で翔からメディアケースを受け取り、にやりと笑う。それは元々彼の所有物で、中には一つ古い型のミニディスクが入っている。どうしても中の映像と資料が見たくなり、無理を言って貸し出してもらっていたのだ。
「久しぶりに見て懐かしかったかろ」
「はい。それもあるし、参考になりました。観れて良かったです。有り難うございました」
「雛ちゃんと一緒に見たのか?」
「いえ……見せてません」
 視線を泳がせる翔を見、国枝はいかにも残念そうにええとぼやいた。
「なんだよ。つまんねーな。お前も出てるのに」
「だっ、だからです」
 確かに、ここに入っている映像の一部には翔自身も出ている。しかし出ていると言っても、十年も前の映像だ。いくら勉強になるとはいえ小学生時の自分は一人で見るのも辛く、雛に見せるなど考えただけで羞恥で死にそうだ。