Sparrow!!--#8:Avoid(08)

 せめて一勝。陸央にはよく窘められるが、雛だって無論焦っている。焦っていないわけがない。
「翔を? 何でまた」
「幼馴染なの。周藤さんと、久世さんと、翔」
 雛は振り向いて答える。そういえば、陸央にはこの辺りの関係をまだ言っていなかった。翔の家近所ではわからないが、少なくとも海峰園では、彼らを見かけはしても話をしたことは殆ど無い。
「へぇ、兄貴みたいなものか。なるほどねぇ――って、雛、前」
 陸央に言われ、雛は初めて前方にいる別の気配に気付いた。ひゃあと声を上げかけて堪える。前方数メートル先にいるベンチに、他でもない黎二と颯介がいるのだ。
 足を止めるべきか否か瞬時に迷った。黎二だけならともかく、今日に限って颯介もいる。昨日のような緊迫した状況ではない今、コミュ力モンスターの彼がこちらに声をかけてこないはずがないだろう。雛は注意深く二人を観察した。颯介はベンチに浅く腰掛け、いつもの黒いトレーニングウェアの黎二は立ったまま水分補給をしつつ、二人で端末を囲んで話をしている。意外と見ない光景、そしてチャンスだ。二人とも他のものに集中しているのだし、先日のようにこちらには目もくれないかもしれない。雛は脚を止めず、陸央ともども黙って前を通り過ぎようとした。が、
「雛ちゃんじゃん。あと……霧島君。え、浮気?」
 そうは問屋が卸さない。颯介は当然こちらに気付き、しかも聞き過ごせないことを言った。
「ちっ――」
「違います。やめてください。雛みたいに女子力無いの、全然タイプじゃないんで」
 先に陸央が真顔で答え、雛は雛で声にもできずに彼を見た。失礼な。女子力くらいある。それにこちらだって翔以外と噂になることは望んでいないが、陸央もちょっと照れるとか焦るとか、そういうのがあっても良いのではないか。
 何か言い返すべきと思ったが、笑いをかみ殺している颯介の傍らで、黎二がじっとこちらをねめつけているのに気付いて口を噤んだ。静かに動揺する。空ではともかく地上では、こちらから絡まない限りは無視されるのが普通になっているのだ。むしろ無視されるからこそ、再戦を目論んでいるというのに。
「おい、お前」
 壊れた玩具のようにぎこちなく、雛もついに黎二を睨み返す。
「おっ、お前じゃなくて雛です。宝生雛。覚えてください」
「必要無ぇ」
 即答し、黎二はわざわざこちらに詰め寄って着た。颯介がおっと声を上げ、雛は口先まで出かかっていた抗議を唾ごと飲み込む。引きたくないプライドと何をされるかわからない純粋な恐怖の間で雛の脚が竦んだ時、黎二は至極真面目な顔で言った。
「この前の事、誰かに言ったか?」
 この前――と考えを巡らせるまでもない。雛が偶然居合わせてしまった、立葵と彼の一悶着のことだ。
「――いえ」
 素直に答えた。誰にも言っていない。立葵自身が無かったことにしたそうだったし、たまたま居合わせただけの雛には何をする権利もない。立葵に手を上げそうになったことを気にしているのかとも思ったが、彼がそんなことを気にするようには見えない。溜め息とも安堵ともつかない短い息を吐き、黎二は更に続けた。
「余計なことはするなよ」
 まるで、こちらがその余計なことをしそうだとでも言わんばかりだ。
 どうしてと噛み付く間も無く、黎二はふいと身を翻した。
「黎二?」
「休憩終わりだ。お前は戻ってろ」
 颯介に肩越しに答え、雛の脇を擦り抜けて走り込みをスタートさせる。背中が充分に遠くなるのを見定め、陸央がすっと寄って来た。
「この前の事って? 何があったの。翔にも言ってないでしょ」
「ええと、それは……」
「ほんとに誰にも言ってないんだねぇ」
 意外だなぁ、と颯介が割り込んできた。雛は曖昧に頷く。言っていない――というよりあえて秘密にしていたわけではなく、立葵と面識の無い翔に言う理由が無いだけだった。
「たまたま見ただけで、私自身は直接関係ないことだから……と、というか今の、どういう意味なんですか? 周藤さん」
「ああ、まぁ一応たっきーのことは認めてるしね、黎二。この前の試合のことが協会側にばれちゃったらちょっとややこしいことになるし、無闇に広めるなってことだと思うよ」
「たっきーって……」
 陸央は眉根を寄せる。更に問い正そうと口を開けた時、彼のウェアのポケットからフォンと端末の電子音が漏れた。雛のものも間髪入れずにバイブする。嫌な――虫の知らせのようなタイミングだ。
「雛、やばいじゃん」
「うは、まじか」
 陸央が開いた画面を颯介も覗き込み、口々に感嘆した。陸央は今度こそ焦った口調だが、颯介は完全に笑いを含んでいる。雛は端末を開けた。軽く画面をスクロールするだけで、自分の名前はあっけないほどに早く見つかった。
『第八試合 冴羽立葵 対 宝生雛』
――次は勝てると良いね。
 彼の言葉を思い出し、焦るでも沈むでもなく、雛はゆっくりと唾を飲み込んだ。


 眠っている間に通知が来ていた。
 鋭角に入り込んで来ている日光をまともに受け、立葵は眉根に皺を寄せて画面を見た。立葵は茉莉の予定に合わせて模擬や滑空の予約を組む。午後に授業が詰まっている今日は、午前中に自主トレの区切りをつけて自室に籠もっていたのだ。眠りに落ちた時間は覚えていないが、光の感じから二時以降夕方未満であることがわかる。端末を持ったまま自室を出、いつもどおりビタミン剤を飲むために台所に向った。歩きながら対戦プログラムをもう一度確認する。宝生雛。何度目を落としても、その三文字が自分の名前の横にある。
 昨日後ろを追いかけてきた、無知な小動物のような目を思い出す。同時に、とてつもない面倒くささが腹に沸いてきた。何故このタイミングで彼女なのか。寝起きの低血圧と相まって、気分はすでに最悪の域に達している。
 ため息ついて台所のドアを開ける。前を見ていなかったわけではないが、ドアの向こうで同じく部屋を出ようとしていた茉莉が、額をこちらの胸あたりにぶつけてきた。あっと声を上げ、コンタクトを入れた目でこちらを見上げた。試合中に落としたりずれたりするのを避けるために、FMマッチをしている時のみ眼鏡なのだ。眼鏡でも姉の容姿はそこそこだが、立葵自身はコンタクトの方が良いと思う。服装も白いシャツとストライプのスカートという組み合わせで、颯介にでも見せたら大手を振って喜びそうだが、何だかむかつくので想像はしないでおいた。
「――ごめん、大丈夫?」
「全然平気」
 先日黎二にされたことに比べれば、茉莉とぶつかることなどノーダメもいいとこである。それに、帰っていたことにも気が付かなかった。自分を呼びに行こうとしていたか、茉莉は廊下に出ず台所に戻り、自分用の麦茶をグラスに汲んだ。
 沈黙。ここしばらくの間、正しくは前シーズンの終わりがけから、姉との間には気不味い空気が漂い続けている。本戦選手を持つ企業――星馬重工が持つ選手団体・スターヘイズから直談判されたのを、立葵が独断で断ってしまった。本戦に上がる場合、普通なら、シーズン後に成績を元にした企業による選抜が行われる。本戦に上がる選手には上限があるため、選抜は本戦候補を優先に行われるのが通例だ。シーズンの総成績が出ていないうちからスカウト――囲い込みをされるということは、それだけ企業からの期待値が高いということだ。
 星馬重工は言わずと知れたグラビティ・ドライブからFMを開発した企業であり、スターヘイズはFMマッチが始まった当初から競技を支える大手だ。今シーズンに息を吹き返した望月瑠夏をはじめ、華と実力のある選手を多く抱えている。地元を拠点にしていることもあり、天馬リーグの選手にとってもスターヘイズに所属することは特別なことなのだ。
 勿論、姉にとっても。