Sparrow!!--#8:Avoid(06)

 青白い蛍光灯が、決して広くない鈍色の室内をさめざめと照らしている。鳥の羽ばたきのような短い夢から覚め、茉莉は目の前の状況に呆然とした。
「――しまった」
 オペレーションボードの画面は、真っ黒に落ちてしまっていた。急いで立ち上げ直し、書きかけだった改造版の立体設計図を上書きする。半端な出来だが、もう今日は集中できそうにない。デジタル時計は二十一時を少し回った時間を示している。海峰園からここ――星馬重工の敷地内にある準戦選手用のドックに移ってきて、もう二時間以上も経過していた。立葵はとっくに自主練のために帰っている。一人きりの作業は気楽だが、こうした時に誰もたしなめてくれないのは地味に堪える。消費した時間に溜息をついて片付けに移ったその時、甲高い電子音が鳴り響いた。柄にも無く驚き、荷物の中に埋もれたままだった携帯端末をやっとの思いで探し当てる。画面の真ん中で、着信の赤いアイコンが点滅していた。
「はい?」
『やっほー茉莉。あれ? どこそこ?』
 アイコンをタップすると、画面に見慣れた顔が現れた。同じゼミのメンバーで、大学では一番仲が良い相手である。
「FMの整備をしてるの」
 ドック、と言い掛けて言葉を変える。大学の研究室らしき場所にいる彼女は、興味深そうにこちらの背景を注視した。
『へぇ、そんな場所でいつもやってるんだね』
「ええ――その爪、どうしたの?」
 画面越しの彼女の華やかな色の爪が目に留まった。昨日会った時は、確か別の色をしていたはずだ。
『さっきサロン行ってきたの。ほらほら、可愛いでしょ』
「うん。似合ってる」
 こちらに見えやすいように爪を見せてくれた彼女に、茉莉は素直に頷いた。よく見れば驚くほど細かい花模様が描かれ、更に小さなスパンコールやジルコニアが貼り付けられているのが、画面越しでさえもよくわかった。
『明日の四限、休講なんだって。忘れないうちに言っとこうと思って』
「そうなのね。有り難う」
『どういたしまして。私が協力できることってこういう事くらいしか無いし。週末も試合なんでしょ? 時間合ったら見に行くね。次も頑張って』
「……うん」
 通信を終え、茉莉はここを去る準備を再開させた。翡翠のボディを磨いてカバーを掛け、持参の道具をまとめ、扉のロックをきっちりと閉める。時間が遅いことを除けば、いつもどおりの流れだ。立葵は翡翠の調整を全て茉莉に任せているから、余程のことが無い限りここに留まらない。信頼されていると言えば聞こえは良いが、実際は立葵がこちらと二人きりになりたくないからというのが大きな理由だろう。
 前シーズンの終わりに、茉莉は立葵と珍しく口論――というよりも、こちらがが一方的に責め立てたのだが――になったことがある。スポンサー希望の企業からの本戦進出の話を、立葵が独断で断っていたのだ。シーズン中の企業からの正式なスカウトなど、普通ならそう簡単にあるものではない。けれどすぐにでも話に乗りたかった茉莉に対し、立葵の意見は消極的だった。結局準戦での出場を続けることになり、二人の関係も、それからもうかなり長い間ぎくしゃくしたままなのである。最近では、模擬や試合の時にしかお互いまともに話さなくなっていた。
 利用している他の整備士と会釈を交わしながら、長い通路を歩く。もう慣れていると自負しているのに、重い荷物を提げた肩はすぐに痛くなった。担ぎ直そうと腕を上げた拍子に自分の指先が目に付き、歩きながら通路の蛍光灯に手のひらをかざす。機械油に汚れた指。酷いところは黒く固まっているし、皮は厚く荒れがちだ。大きさを度外視すれば、男の手と殆ど大差ない。
 映像越しに見た友人の爪を思い出す。日常的にFMを弄ることの無い自分以外の女の子は、皆あんな風に爪を飾ることができるし、細くて白い彼女らの指にはそれがとてもよく似合う。けれど自分がそれを真似したところで、この指ではお笑いにしかならないだろう。実際に、乾いた笑いがこみ上げてきそうだ。
 大学の同期の間でも、整備士免許を持つ者は茉莉しかいない。その上今でこそ年下の整備士もいるが、茉莉が免許を取った当時は自分が最年少だった。女子高生整備士とメディアにも取り上げられて一躍名が知られるようになり、学校やFM関係者からも一目置かれ――当初は誇らしく心地よかったが、そんな時期ほど水のようにするりと過ぎ去っていくものだ。
 あの時はやりがいを感じ、輝いて見えていた日々も、今では手を汚して機械をいじり、立葵の顔色を伺う日々に成り代わっている。翡翠は特殊な機体だが、祖父が昔乗っていた試作品が元であり、茉莉が元から造ったものでもない。強豪だの本戦候補だのと話題に上がっているが、その原因の殆どは翡翠とそれを乗りこなす立葵によるもので、実際には自分など若くして免許を取ったというだけの並の整備士に他ならないのだった。
 両親と確執があり、内向的で人付き合いが得意では無い立葵には、頼れる人間は自分しかいないのだと思っていた。けれど、今となっては立場は逆転している。自分には立葵しかないのだということを、立葵本人の行動で茉莉は痛いぐらいに思い知らされている。
 更に溜息が出た。もの思いに沈みかけたその時、突然背後から肩をつつかれた。
「ひゃっ!?」
「あ、ごめん。そんなにびっくりした?」
「久世君……」
 昨日はグラウンドを挟んで向かい合っていたとは言え、実際には久しぶりに聞くハイバリトンだった。知った人間がこんなにすぐ傍まで来ていたのに、気付けないほど自分は疲れているというのか。表情筋さえ動かせない茉莉に、颯介は相変わらずの整った顔を柔和に緩ませて続ける。
「珍しいね、この時間にいるなんて」
「……今日は模擬が遅かったから。貴方はいつもこの時間なの?」
 海峰園はもう閉場している時間だが、このドックと同じ敷地内にある練習用のグラウンドなら深夜近くまで利用できるのだ。模擬は行っていないが、滑空訓練なら十分にできる。
「そう、いつもこのくらいの時間に飛んでるんだ。黎二が夜の方が好きなんだよ。星望杯みたいだってさぁ」
 子供みたいでしょ? と言って颯介は笑った。しかし満更でもなさそうで、茉莉にもその気持ちは少しわかる。FMの選手をしていれば、誰もがあの夜のステージに憧れを持つのだ。夏大会の広大な青空も好きだが、満天の星に覆われた星望杯の夜空は否応も無く特別なものである。
 そういえば――今から練習だと言うのに、その黎二の顔がどこにも見えない。
「周藤君は?」
「バイトで遅れてる」
「えっ!?」
「そんなに意外?」
「ええ、少し……」
 黎二の鋭い目を思い浮かべる。本人には絶対に言えないが、働いている所など全く想像ができない。立葵と良い勝負だ。どこでどう働いているのか純粋に気になったが、知らずにいる方がいい気もする。颯介は笑いをかみ殺したままの顔で横に並んできた。
 彼はまだ二人しかいない年下整備士の一人で、顔見知りになってから三年ほど経つが、こうやって歩幅を合わせて付いてくる所は昔からずっと変わらない。数歩も進まないうちに、颯介は自然にこちらに手を差し出した。
「荷物、貸して? 出入り口まで持つよ。どうせ黎二から連絡来るまで暇だし」
「有り難う。でも、平気だから」
「平気でも、さ」
 こういったことに慣れているのだろうなと思いながら、申し出に甘えて荷物を渡した。社交的で気が利くから、彼はきっとどこへ行っても上手くやれるのだろう。茉莉より後にこの世界に入ってきたのに、颯介の方がずっと顔が広いのがその証拠だった。
「久世君――昨日はごめんなさい」
 先日の試合のことだ。勝敗が付きそうだったのを、立葵が独断で手を抜いて無理矢理引き分けで終わらせた。立葵はこのことについて何も言わないが、茉莉には故意であることがわかっていたし、颯介か黎二に会えば謝ろうと思っていた。