Sparrow!!--#8:Avoid(03)

 ふわふわした二度寝にきりをつけ、やっと身体を起こしたのは、最初に目が覚めてから恐らく一時間後のことだった。
 細く開けたままだった窓から風が流れ、遮光の分厚いカーテンがわずかに揺れる。壁のデジタル時計を見れば、午前十一時を少し過ぎていた。昨日ぶつけられた所為なのか、夜更かしをした所為なのか、いつもよりも頭がぼんやりする。深夜にトレーニングを終え、それからはずっと溜まった映像やデータのチェックをしていた。就寝したのは五時頃だったから、ちょうど五時間の睡眠。昔はもっと長時間惰眠を取っていたことを思えば、これでもましになった方だと立葵は自負している。ふらふらと自室を後にし、薄暗い階段をゆっくりと降りていく。リビングにつくとすぐ、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
 粉末のビタミン剤と共にグラスに注ぎ、一気に飲み干す。テーブルの上に、今朝ボイルしたのであろう卵が三つ皿に入っていた。丁寧にメモまで付いている。十四時には終わります、という姉――茉莉の綺麗な字を認め、立葵はその紙切れを着古したスエットのポケットにしまい込んだ。宛名が無い。ということは、この家には今自分以外の人間はいないらしい。
 まぁ、それもそうだと思う。平日の昼間から家でダラダラしている者など、この家には自分くらいしかいない。星馬重工に務める父と教師をやっている母。同じ家の中で生活しているというのに、立葵は普段から彼らとあまり顔を合わさなかった。別段仲が悪いというわけではないが、話すことも話したいことも無いから会う必要も無い。もう片手では足りないほどの年数、両親は自分の世話を姉に投げっぱなしにしている。
 立葵の両親は、子供に対して厳しい親の部類に入る。自分たちの子供が他の誰よりも優れ、一目置かれるような存在になることを信じていたし、昔は学力でも運動でも一番でいなければならないことを強要していた。要領の良い姉は実際その通りなれたが、立葵は違う。勉強も運動も苦手で、競争や他人と比較されることは当時からあまり好きでは無いことだった。
 そんな自分を、両親は理想通りになれない度に叱咤する。お前は甘い鈍い。将来誰かの上に立つ人間が、今から負けることに慣れてはいけないと。しかしいくらそのレベルに行こうと努力しても、失敗への恐怖は乗り越えることができない。周囲に勝つことの喜びよりも、両親からの評価に怯え、立葵は何もできなくなっていたのだ。ついには中学受験の答案を前に何も解けず白紙で提出し、それまでに無いほどの怒号と叱責を両親から受けた。
 その時、同時に自分の中で何かが爆発した。
 家中が瓦礫まみれになるほど暴れたというのに、その時の記憶は怖いほどに無い。声も発さず部屋に閉じこもった自分に対し、両親はまるで手を噛まれただけで飼い犬を捨てる子供のように匙を投げた。その後祖父が初めてFM観戦に誘ってくれるまでの二年間を、立葵はバーチャルゲームに縋ることで満たすことになる。
 一人でやるゲームの勝ち負けというものは、とても温い。負けてもなじられる事はないが、勝っても何かを得られるわけではないからだ。敗北に対する恐怖や緊張が無い反面孤独で、最初はあった自己満足も、手のひらで掬った水のように瞬く間に溢れていった。けれど外に出る気も起きず、ただ空白を埋めるためだけの同じ作業を繰り返す日々。両親からのプレッシャーから逃げて籠もった殻の中には、これまで以上の空虚と苦痛が待っていたのだった。
 長身をかがめ、茹で卵の殻をのそのそと剥がしながら、昨日のことを思い出す。後頭部にはやはり小さなこぶができていた。あいつと地上で顔を合わせば十中八九一悶着あると思っていたし、できれば遭遇せずに帰りたかったのに、わざわざ向こうからやって来たのだ。黎二は元々苦手で会うことさえ避けているから、昨日はかなり久しぶりに会話らしきものをした。相変わらず気性が荒い上に変に真面目で、勝手なことばかり言う。
 不意にインターホンが鳴り、立葵の思考は強制的に遮られた。次いで、玄関のドアがおざなりに叩かれる。
「おーい、誰かいるか?」
 施錠されている玄関が軽く叩かれ、聞き慣れた声が上がった。別の家に住んでいる祖父の芳樹(よしき)だ。卵を置いて玄関まで迎えに上がる。ドアを開くと、彼は強面を崩してにっかりと笑った。
「おう、立葵。一人か」
 祖父は身体も声もでかい。もういい年だというのに年中浅黒く日焼けし、スポーツマンらしくはきはきと喋る。立葵の長身は彼譲りだが、筋肉質な体躯と陽気な性格までは遺伝しなかった。
「どうしたの?」
「茉莉に借りていた工具を返しに来たんだ。ついでにお前の顔も見に」
 片手に持っていた見覚えのあるケースを掲げて笑う。居間に上がるなりどっかりと椅子に腰掛ける祖父に、立葵は冷えた麦茶を注いでやった。玄関からちらりと見た外の日差しは、もうすっかり夏の装いになっていた。午後に模擬試合の予約を入れていたことをふと思いだし、立葵は若干うんざりした気分になる。海峰園は西日がきつく、夕方になるほど温度が上がるのだ。しかしそんな孫の憂鬱などつゆ知らず、自他共に認める夏男の祖父は元気良く麦茶を飲み干した。先ほどの立葵とほぼ同じ動きで茹で卵の殻を剥きだす。
「昨日の試合、見てたぞ。中々良い内容だったな」
「そう?」
「ああ。お前の試合でも久しぶりに見応えがあった」
 その応えに、立葵は自嘲ともため息ともつかない声を漏らした。祖父には以前言われたことがあるのだ。選手には個性が必要だが、それを差し引いてもお前の試合はつまらない。本来十の力を持っているのに、相手が一ならば二までの力しか出さないからだと。
 これが観客からのクレームなら、立葵は無表情に受け流すことができるだろう。けれど祖父は普通の観客ではない。立葵がこの世界に入るきっかけを作った彼は、今から三十年以上前にFMを今の形に造り上げた最初の研究チームの一人であり――とりわけ滑空の実践を主に担当していた最初の選任操縦士で、興行として催された一回目のFMマッチにも選手としてエントリーしている。操縦を引退した後もアンパイヤとして関わっていたし、今でも毎週こっそりと海峰園に顔を出すほどなのだ。素人目から見た評価ではない分、祖父の皮肉はいつも確実に立葵の的に当たる。
「別に……見応えがなきゃいけない決まりは無いし。翡翠の特性を考えたら、攻めるよりも待つ方が良いんだよ。周藤、というかホムラとは特に相性が良いし」
「だから、手を抜いても良いのか?」
 瞬発的に顔を上げた。祖父はにやにや笑ってこちらを見ている。
「……たまたま引き分けになっただけだよ」
「俺にはたまたまには見えなかった。確かに接触しかけていたが、タイミングが取れないほどでは無かっただろう。お前の腕なら最後のレールのタイミングはあと一秒でも早くできたはずだ。どうせ再戦を申し込まれるのが嫌だったんだろう? 周藤は負けん気が強いからな。お前とは合わなそうだ」
 行動も思惑も全部把握されている。しかも、黎二と合わないことまで読まれていた。ばつが悪く、立葵は押し黙る。再戦。一度負けた相手に再試合を申し込める、準戦独特の制度だ。試合の相手はランダムで選ばれるため、一度対戦した相手とシーズン中に再度当たることは難しい。それでももう一度特定の選手と戦いたい、諦められないという時に用いることができる。立葵にとってはうざったい制度だが、黎二はこの制度が気に入っているようだった。
 剥き終った卵を半分囓り、祖父は独り言のように呟いた。
「何で本気にならないんだ。真剣にやっている者に対して手加減することは、優しさなんかじゃないぞ。お前のエゴだ。周藤もだが――茉莉はどうなる」
 手のひらにあるまだ剥けていない卵を見つめ、立葵は何も言えない。姉が整備士になったのは、立葵がFMに興味を持ったのがきっかけだった。立葵のために整備士をやっているようなものなのだ。祖父は重ねて言う。顔を見に来たどころか、きっと彼はこれを言うためにわざわざここに来たのだろう。
「一体何を怖がっているんだ、お前は」