Sparrow!!--#8:Avoid(02)

「雛、お腹空いた?」
 翔の問いに赤面しつつ頷いて、雛は素早く席を立った。口では何も言えなかったくせに、これだけは正直に出るらしい。折角翔がフォローしてくれたのに――と自分の壊滅的な間の悪さを呪いながら、雛は早口に続けた。
「ラップサンド買ってくるよ。二人とも、食べる?」
 試合日だけに出張で来る移動販売だ。安価でボリュームもある上にヘルシーという三拍子揃った準戦の名物なのだが、操縦士は滑空前に固形物の摂取を避ける必要があるために、試合が午後の場合は食べられないことが多い。片眉を上げてこちらを見ていた陸央が手を上げた。
「じゃあ僕、テリチキ。マスタード多めで」
「翔は?」
「同じのでいい。というか、俺も行こうか?」
「ううん、大丈夫。一人で行ってくるよ」
 翔に対して短く首を振り、雛は足早に試合の呪縛から解き放たれた観客に紛れた。陽の当たるスタンドから海峰園内部に入り、周りに気付かれない程度に肩を落とす。
 情報収集は翔任せ、一夜漬け、訓練と身体造りばかりが操縦士の仕事ではない――陸央の先ほどの発言は、ほぼ全てにおいて雛の頭に勢いよく直撃した。恐ろしいほどに当たっている。本来なら誰といつ当たってもすぐに対策が取れるようにリサーチしておくのが理想なのだが、毎日の訓練メニューをこなすのにいっぱいいっぱいで、対戦相手が決まってからその選手をチェックするのがお決まりになってしまっている。操縦士としての身体ができきっていないハンデを鼻にかけているようで、こんな表現には逃げたくないのだが――完全にキャパオーバーしてしまっているのだ。
 翔の言ったとおり、先週行った十三試合目でやっと引き分け――全試合の約三分の一まで来て初めての敗北以外の結果――が取れた。元から勝利数の無い雛には影響が無かったが、試合数のみが増えるために、本来引き分けになれば両方の選手の勝率が下がる。つい先程の試合だってそうだ。あれ程互いに撃ち合い、凌ぎを削った内容でも、黎二も立葵も勝率を落としている。だからこそ引き分けは、本来選手としては一番避けるべき結果ではあるのだ。
 ロビーを出てすぐのところにあるラップサンドの屋台で、テリチキ二つとエビポテト一つを買う。翔と陸央は肉類が入ったものが好きだが、雛には少し重い。三つ分が入った紙袋を受け取った時、ちょうど試合開始を告げるサイレンが鳴った。観客も移動し終わった廊下を、雛は足早に進む――と。
「ちょっ、ちょちょちょたんま! 駄目だって!!」
 眼前の突き当たりの先で、聞き覚えのあるハイバリトンが叫んだ。
 はっと脚を止め、雛は身を固めた。嫌すぎる予感が沸き上がる。しかし一本通路である海峰園の構造上、ここを通らねば元の場所へは戻れなかった。ラップサンドの袋をきゅっと抱き、雛は勇気を振り絞って一歩を踏み出す。角の向こうで、誰かが喋った。
「いい加減にしろよ、お前」
 身体が硬直する。二ヶ月ほどぶりに聞く唸るような低い声は、前に聞いた時のままだ。今姿を晒せば食われる――という、まるで野生動物のような予感がよぎる。実際には十中八九無視されるだけだろうが、雛は本能的にこの声の主を警戒するようになっていた。
 その主――周藤黎二の声に応えて、誰かがぼそぼそと呟いた。
「あぁ!?」
「黎二!!」
 先に聞いたハイバリトンが被った。黎二の整備士の久世颯介だ。ただ、二人以外の第三者がいるようだった。雛は思い切って彼らが見える位置まで歩を進める。
「――冴羽さん?」
 黎二が胸ぐらを掴んで詰め寄っている相手は、先ほどの自身の試合相手――冴羽立葵その人だった。二人ともライダースーツからウェアに着替えていることから、スタンドに移動する途中に行き会ったのだろう。幸い周りに一般の観客の姿は無かったが、選手同士の衝突を見るのは雛にとっては勿論初めてで、その上黎二らしくもない行為のように思えた。彼の気性が荒いのは十分わかっていたが、試合の前後では努めて冷静に神経を尖らせている印象があったからだ。けれど裏を返せば、それほどの確執が立葵との間にあったということだ。掴んだ襟を引き寄せ、彼は声を更に低く絞った。雛がやられたらすぐに心臓が止まってしまいそうなほどドスが効いていた。
「どういうつもりかって聞いてんだろうが」
「何が? 勝率下がったのがむかつくの?」
「そうじゃねぇ!!」
 惚けた立葵に、黎二が吠えて返した。
「率なんてどうでもいんだよ。最後だ! 舐めた真似しやがって! お前にはプライドも無ぇのか!!」
 何のことでの口論なのかわからなくなる。勝ちに拘るタイプの黎二が、勝率は関係ないと言うのには耳を疑った。立葵もそうだったのかもしれない。激昂している黎二とは反対に、長い髪から覗く彼の口角が引きつった。初戦の前に少し話した時と同じ眠そうな目で、睨み付ける黎二を無表情に眺める。
「最後……交差の時のこと? どうしてそう思う? あれがあの時の俺の限界だよ」
「嘘つけ!! お前ならあれくれぇ屁でも無かったろ!!」
「何で言い切れる? いつもはこっちのこと、馬鹿にしてるくせに」
「お前がそういう奴だからだろ! 技術じゃねぇ。そういう態度が気に食わねんだよ。引き分けなんて下らねぇ結果選んでんじゃねぇよ。お前のそれは――」
「じゃあ、」
 黎二の言葉を遮って、立葵の声がようやっと張られた。無表情な目が、前髪越しに目の前を相手を見る。
「――負ければ良かったね」
 ぶちっという音が聞こえた気がした。黎二は立葵をそのまま壁に押さえつけ、ごっと嫌な音が聞こえた。髪がかかり、彼の表情はよく見えない。振りかぶられた黎二の拳に、颯介が素早く飛び付いて制した。
「止めんじゃねぇよ颯介!!」
「止めないわけないっしょ!? 落ち着けよ!! シーズン棒に振るのか!?」
 シーズンという単語に、黎二は幾分か冷静さを取り戻したようだった。猛禽類のような鋭い視線を、きっと立葵から颯介へと移す。颯介は力なく付け足した。
「気持ちはわかるけどさ、黎二……それ以上は駄目だ。折角上手くいってるのに、俺は片羽にはなりたくない」
 他選手に手を上げれば、出場権は簡単に剥奪されてしまうだろう。悔しげに顔を歪ませ、黎二は黙ったまま立葵の襟を掴む手をほどいた。立葵は身体を壁に当てたままリノリウムの床の上に崩れ、対する黎二は舌打ちを残してロビーの方へと去って行く。雛の真横を通って行ったが、当然こちらのことは見もしなかった。
「……たっきーさぁ。俺も思ったよ、あの時」
 言いながら、颯介は苦い薬を飲んだように端正な顔をしかめた。一瞬だけ雛を見、再度立葵に向き直る。
「わざとだよね? 最後に側面に当てたの。黎二も言ってたけど、充分こっちの機頭狙えたはずじゃん。チャンスで一瞬レールを遅らせたこと、観客は気付かなくても対戦相手は気付かないわけないよ。何で勝たなかったの? 俺らに」
「え――」
 当の立葵よりも先に雛の声が出た。颯介はたっぷり数秒の間をもって返答を待ったが、立葵は俯いたまま動こうともしない。やがて颯介も肩を竦め、黎二を追うようにロビーへと向かっていった。その場に雛だけが残され、しかし無視することもできず、人形の如く硬直する立葵にそろそろと歩み寄る。
「……大丈夫ですか?」
 彼はゆっくりと首をもたげ、こちらを認めた。身体が痛いというよりも、投げやりになっている子供のような仕草である。
「あの、冴羽さん、本当ですか? 今の話。わざと引き分けにしたって……何でそんなことを」
「さぁ」
 気の無い反応に、雛は煮え切らない思いで彼を見た。今現在試合をしている機体のフィィィンという音が響く。雛から顔を背けてやっと立ち上がり、立葵はまた口角を歪ませる。笑顔に見えないことも無いが、目元は笑っているわけでもない。あっけらかんと、まるで明日の天気の話でもするような気のない声で続ける。
「試合、やってるよ。早く行った方が良いんじゃない?」
「そう、ですけど」
「今の君なら、一試合でも多く見るべきだ。……余計なことは忘れてさ」
 そして、彼もまた踵を返した。