Sparrow!!--#8:Avoid(01)

 耳鳴り。
 遠く近く、低く高く、耳元に纏わり付いてくる気圧のたなびきが不快で、立葵はシールドの中で眉をひそめた。
 FMで滑空する際、特に高高度を飛んでいる際に起こる現象だ。予防で試合前に点耳薬を差すことが通例だが、自分にはこれがあまり効かないらしい。痛いという程ではないが、集中は確実に乱されている。立葵はそれを繋ぎ止めるように眉間に力を入れ、正面を向いたまま、視界いっぱいまで目を滑らせた。
 相手に視線や次の手を悟らせないため、滑空中はできる限り身体の動きを廃しなければならない。このことに気が付くまで、自分にはワンシーズン分の試合数が必要だった。青すぎる空と遠くに見える街のビル群、海の緩やかな曲線。自分のいるこの場所でも充分高いが、更に上の空をジェット機が通過していた。足元の海峰園のオレンジ色のスタンド席では、豆粒程の大きさになった観客たちがこちらを見上げている。弧を描いて飛びながら、立葵は自分の斜め前方に彼――今日の対戦相手であるFMの気配を掴む。何度目の交差になるのかもう覚えていなかったが、残り時間は既に一分を切る。タイミングの取り合いは終わりだ。向こうが痺れを切らしているのがよくわかる。彼の気性上、きっとあと数秒も待てやしないだろう。
 速く飛び、相手にレールを当てるだけが仕事と思っている操縦士がいるとすれば、そいつにはもうバーチャルゲームで充分だと立葵は思う。生身同士で戦うからこそより的確に状況を見る必要がある一方で、仮装訓練だけではこの感覚はどうしても鍛えられない。冷静さを保つことは空の上では想像以上に難しいことだ。しかし、これがFMマッチの最大の魅力だと自分は思う。――と。
 風が変わった。
『立葵、あと一〇秒で接触圏内よ』
 鈍い耳鳴りに、くぐもった姉の声が被さる。立葵は「うん」と向こうに聞こえるだろうギリギリの声量で答え、ハンドルを持つ両手にじわりじわりと力を入れた。シールドに映された自分の持ち点は十三。相手は十。ここを守り切れば勝ちが取れるが、それだけで済むとは思えない。
 フィィィィィン――と耳をなぶる音が一層高くなり、同時に視界の流れが止まった。四方に空気の断層ができたような感覚に包まれる。僅かに西に傾いた太陽の光をライダースーツ越しに感じ、同じ光を浴びた赤い色が閃いた。
 その距離、二秒。
 息を止める。光に負けぬよう目を凝らせば、その一瞬の中で相手と目が合い――この場合、多くはただの錯覚だ。姿は見えても、普通ならばシールドが黒く遮光されている所為で目元までは見えない。しかし今回ばかりは、相手がこちらをじっと見ていることが痛いくらいに感じられた。猛禽類とよく似た鋭い目が、眼差しだけでこちらを捕らえようとしている。立葵は口角を歪ませた。
 赤い機体が翻り、ドッという大きな破裂音と共にこちらの視界が狭まった。身体の中央に力を入れ、強烈な風圧を受け止めた。トリガーに手をかける。風は止み、コンマ二秒。握る。一瞬の光と、水しぶきのように跳ね上がる観客のどよめき。そして、終わらない耳鳴り。
 ひと呼吸分の間をおくこともなく、試合終了を告げるサイレンが響いた。


『――これにて第二十四試合目を終了致します。結果は十五対十五、勝者は無し――』
「引き分け……」
 アナウンスが響く中、トレーニングウェア姿の雛は唖然と呟く。周囲の観客や選手達も同じだったようで、試合終了と共に集中を切らしていつになく弛緩していた。十分もの間、息を止めていたみたいだ。周藤黎二対冴羽立葵という本戦候補同士の組み合わせは確率的に珍しく、始まる前から注目されていたのだ。案の定試合は最後まで縺れ、終了間際の一瞬ですら点を取り合うものになった。
「凄い試合だったね」
「ま、組み合わせが組み合わせだからね。こんなもんでしょ」
 隣に陣取る陸央がいつもの調子で返す。ただ、顔には雛と同じ驚嘆が浮かんでいた。今日は雛も彼も朝の間に試合が終わり、大一番であるこの試合もフルで見られると意気込んでスタンドまでやってきたのだ。雛を挟んで彼の反対側に座る翔も、ため息がちに呟いた。
「最後の交差、レール見えなかったな。アウトサイドのデータ借りれるといいけど」
「それ。絶対殺到するよ……ってか、今僕のアカウントで予約しとく。一緒に見れば良いし」
 言いながら、陸央は携帯端末から協会サイトにログインをかけた。試合の動画データは、終了した一時間後から他選手へのレンタルが行われることになっているのだ。先着順に貸し出されるため、特に名勝負の後は取り合いの場外試合が勃発する。事前予約は、それを賢くかいくぐる手段の一つだ。  仲良くなってから一ヶ月ほどが経つが、陸央は雛からすれば目から鱗が出るほどフットワークが軽い。し、無駄が無い。殆ど香坂からの受け売りだと彼は言うが、雛も翔もまだそんな要領を持ち合わせていない故に感嘆しか出てこない。
 既に撤収も終わりかけているグラウンドを見る。黎二もその赤いFMも、反対側を陣取る立葵も、もう既に姿を消していた。騒然とする地面を見つめながら、翔が呟く。
「黎二、やっとあれを出した」
 初戦で雛相手に見せつけた、爆発的な加速のことだ。彼らはあれ以来この技を出さずにいたが、今日に至ってやっと使用した。
「うん……冴羽さん、あんな至近距離でフロートになるから、フォールしちゃうのかと思った」
 黎二の加速が出たのとほぼ同時に、立葵のFM――翡翠は突然滑空を止めた。彼の試合を見るのは初めてではないから、雛もそれが独特のプレースタイルだということは知っている。だが試合の最後、黎二があの加速を使ったタイミングで止まるとは思いもしない。結果、見ているこちらがヒヤリとするような至近距離の交差になった。
「あれはフロートじゃない」
「えっ!?」
 間髪入れずに来た翔の訂正に、雛は間の抜けた声を上げる。
「浮いてるだけに見えるけど、一応ランの状態なんだ。あの機体特有のもので、翡翠(ひすい)――宝石じゃなくて、鳥の方――の名前に因んでホバリングって呼ばれてる。普通完全にフロートになるには減速せざるを得ないけど、翡翠の場合はラン状態だから加速がついていても止まれるし、すぐに止まった直前のスピードに戻せる。冴羽選手はカウンターの攻撃が得意だから、黎二が超加速を使うのを待ってたんだ」
「そうなんだ。フォール、怖くないのかな」
 私だったら無理かも、と雛は小さく付け足した。
「僕だって無理だよ。特に周藤はアタックが強いし――でも、だから冴羽は凄いんだってば。デビューして今まで一度もフォールしたことがないし、ホバリングだって遠心力や反動で下手すりゃ操縦士だけが落ちかねないけど、冴羽はそれが最小限になるような身体と技術を持ってる。相当訓練してるんだと思う。痩せて見えるけど、実際はかなり鍛えてるんじゃないかな」
 そう言った後、陸央はじとっと横目で雛を見た。
「……雛さ、普段から他の選手のことちゃんと頭に入れてる? 冴羽なんて強豪の特徴くらい、最初に抑えとくものだよ。情報収集全部翔に任せて、毎週対戦相手だけ一夜漬けしてんでしょ」
「そ、それは」
「陸央、言い過ぎだ」
 言いよどむ雛に、翔が助け船を出す。けれど陸央は、やれやれだぜとでも言うように肩を竦めた。
「でもさぁ翔、操縦士が相手のこと知っとかないと、いざという時に優位にならないじゃん」
「……そうだね」
 雛はおずおずと頷く。代わりに、翔が首を横に振った。
「俺は、身体造りが軌道に乗るまでは仕方がないと思う。今は頭が追いつかなくても気にしないでいい」
「またそんなこと言って。翔はほんっと甘いんだから」
「そ、そうでもない。今日は負けたけど、引き分けなら取れるようになってきたし、命中率も上がってる――」
 その時、ぐうと気の抜けた音が聞こえた。雛は反射的にその意地の悪い腹部を押さえる。
「……あ……ご、ごめん」