Sparrow!!--#7:Grow(14)

 けれど、香坂は陸央が予測した言葉を続けなかった。代わりに手を伸ばし、こちらの肩を抱き寄せる。
「香坂さん?」
 困惑する陸央に、香坂は顔を伏せたまま囁いた。
「……良かった。もうここには戻って来ないと思っていた。君に対して、後悔しか残らないところだった……」
「――僕も」
 心から言葉が出た。香坂は腕を解き、ふっと笑う。
「さあ、もう間もなくだ。用意について。彼女が待っている」
 グラウンドの南側を見る。対角線上にある搭乗台の上に、青い愛機を傍らに立つ雛がいた。まだヘルメットはつけず、まっすぐにこちらを見ている。翔が人工芝から声を掛け、神妙に頷く。つい先日も、同じような光景を見た。
 搭乗台の上でフロンティアに乗り、ヘルメットを被る。ハンドルを深く握れば、いつもどおりのフロンティアの咆哮が始まった。そのリズムは、自分の鼓動の早さとよく似ている。どれだけ性能が良くても駄目なんだ。君がいないと、自分は不完全なんだよ――と、機体自身に言われている気がした。頷く。アイシールド越しの空に、カウントダウンの声が響いた。
『3、2、1――0!!』
 ペダルを踏み込む。ランニングエンジンが燃え、わななき、そしてそれに応えるように、陸央は自分と愛機を空へと解き放った。
 風の音が耳元を切る。ほんの数日前にも体験した感覚が、何年も忘れていた事柄の様に少しずつ頭と体に戻ってきた。上半身を寝かせ、スタンドの弧に沿って滑空する。普通なら減速になるところだが、フロンティアは徐々に速度を上げていく。迫っては過ぎ去っていく観客達の顔と声。雛はどこにいる? 旋回の軌道に従いながら領空中を見渡すと、丁度対角線上、ほぼ同高度の位置にスパローの青い光を見た。距離は十分。ペダルを踏む足にじわりと力を入れ、徐々に加速度を付けて行く。平均速度はこちらの方がはるかに上だ。どちらかが均衡を崩さない限り、追いつけやしないだろう。ヘルメットのスピーカー越しに、ノイズを伴った香坂の声が聞こえた。
『陸央君。一つ、君に言わなければならないことがある。翔君が、フロンティアのリーチのことに気付いていたよ。きっと対策を練っているはずだ』
 フロンティアは、性能を活かすためにレールを短くしている。通常なら不利なこの細工を、陸央は自分の意思で採用して貰った。自ら吹聴することは無いが、秘密にしているわけではない。何故なら。
「大丈夫、全然ピンチなんかじゃないよ。僕はこれが弱点だなんて、一度も思ったこと無いし」
『ふふ。そうだね』
 即答した陸央に、香坂は嬉しげな口調で言う。まるでそう答えることをわかっていたかのような声は、いつになくくすぐったく感じた。
『僕もそう思っているよ。これは君の唯一無二の個性だ。しかも、度胸と技術のいるね……大事にしよう』
「――香坂さん」
 返事代わりに口にした後で、こうして自ら彼のことを呼び止めるのは初めてかもしれないと思い至った。若干の照れを感じながら、陸央は風音に負けぬように続ける。
「有難う。整備士をしてくれて……僕、やっぱりまだ続けたい」
『こちらこそ。君の気が済むまで、これからも一緒に飛ぶよ。君がここにいる限り、ずっとね』
「うん――」
 頷く。
 ああ――そうだ。自分は、ここにいるのだ。
 旋回し速度を上げながら、陸央はそんな当たり前のことを考えていた。フロンティアの形に切り取られた風が背後に流れ去り、一瞬前の自分が過去になっていく。完全に折り合いをつけるまで、きっともう少し時間が掛かるだろう。自分はまだ、今まで気付けなかったものに気が付いただけなのだ。向かい合うべきことも変わるべきことも沢山ある。けれど、まだまだ答えに急がなくても良い。父のことも繭のことも、これからゆっくり整理していけば良いのだ。自分はこれから何十回も何百回も、空を飛べるのだから。どれだけ苦しくても虚しくても辞められないくらい、結局自分はこの場所が好きなのだから。
 先ほど苦心して引っ込めたものが、またじわりと上がってきた。零れそうなのをぐっと堪える。
 あと十分だけ、我慢しよう。
 フィィィィンと、自分では無いグラビティ・ドライブの音が半音だけ下がった。振り向かずともわかる。意外――ではなく、むしろ予想通りだ。均衡を破った青い光が、陸央のシールド越し後方にちかちかと見え始めた。


 残り時間、七分と四十秒。
 降下するね――そう言って、雛はこちらが相槌を打つと同時に高度を下げ始めていた。画面から一時的にフロンティアが消え、翔は実物の空を仰いだ。開いた距離を埋めるかのように、雛は斜め下から更に加速度を付け始める。陸央は大きな弧の途中で、こちらの様子を伺うように機頭の方向を変えた。後を追うことをやめた雛が、次にどう動くかを見極めようとしているのだ。
 速さでは到底追いつけない。けれど、お互い距離を詰めなければ点を入れられないのがこの競技だ。フロンティアの場合は、特にそうだろう。オペレーションボードに表示された、相手との最短距離を見る。
「十メートルを切ったら知らせる。接戦に持って来られたら、向こうのリーチにギリギリ入らない距離に回避しよう」
『うん』
 リンクの向こうで雛が頷く。こちらのレールが当たり、向こうのレールが届かない――七メートル以上十メートル未満の――距離を意識することが、陸央を攻略するキーなのだ。
 フロンティアが完全に向きを変え、こちらを撃つ構えになった。待ち伏せるような形で上昇する雛の視界の中で、鮮やかな紫の影が光る。
 十六、十四、十二――
「切った!」
 交差。雛はわずかに機頭を外方向にずらし、フロンティアから発射された赤い光をギリギリで躱した。同時に赤いランプがディスプレイ上部に灯る。傍らに “2”の文字が浮かび上がり、観客がどよめいた。躱す瞬間に向こうの側面を撃ったのだ。
『上手くいった――!』
 雛が安堵の声を漏らす。これで、陸央に対しては二度目の先制だ。翔も一旦ほっと息をつき、即座に空に向き直った。一度旋回したフロンティアが、斜め上から再度突っ込んでくる。
 対するこちらは減速させ、体勢を立て直す。今度は一度目よりも速い。数値の回りを凝視し、先程と同じく距離を知らせようとしたその時――
『あっ――』
 雛が声を上げた。視界に紫が横切り、コンマ数秒遅れの赤い閃きが飛び出す。ディスプレイ上の陸央の点数にも、“2”が灯った。
 同じ攻撃は二度も通じないとばかりに、こちらが撃つ直前に距離を詰めて来たのだ。まずい――思った時には、画面上の雛の心拍数値が急激に上がっていた。一瞬フォールを思い出す程の接近を何でも無いことのようにやってのけ、陸央はつい数十秒前に雛が取った点を無効にしてしまった。
「雛、落ち着いて。フロンティアは軽い機体だから、フォールには持ち込んでこない」
『うん……そうだね。だ、大丈夫だよ』
 全然そうには見えない。しかし、こういう時にかけるべき言葉が足りないのも経験の浅さの所為だろう。翔がまごついている間にも、残り時間は五分を切った。