Sparrow!!--#7:Grow(12)

「何だって?」
「宝生さん――何故?」
 国枝と香坂が驚いて返す。無理も無いことだ。雛も棄権をすれば、試合自体が無効になる。陸央のように勝ちが多ければ支障が無いかもしれないが、こちらには未だに白星が無い。不戦勝とはいえ勝率が与えられるチャンスなのを、棒に振ってしまうことになる。
「何となくなんですけど……もし逆の立場だったら、霧島君は試合しないで勝つのは嫌なんじゃないかと思って。霧島君を棄権にするなら、私もそうします。試合をしないで勝つのは嫌だから――」
 そう言ってから、雛は不安げな様子でこちらを一瞥する。けれど、彼女がこちらに是非を求めるまでも無い。翔だって、全く同じことを思っていたからだ。
「俺もそう思います。霧島なら、不戦勝は取らないでしょう。試合をしないと意味が無いって、あいつならきっと言うはず。そうですよね、香坂さん」
 ルールに厳しいのも彼なら、勝利にこだわるのも彼だった。それは不戦勝で手に入れたようなものではなく、勿論本物の、だ。
「香坂さん、国枝さん、できるだけで構いません。試合を繰り下げて頂けないでしょうか。本当に何かあったのかもしれないし、もしかしたら帰って来るかもしれない。それでも駄目なら、雛の言うように棄権にしてください」
「翔――」
 雛が安堵の顔をした。頷いて返し、もう一度国枝に向き直る。
「待つ間、俺もあいつを探しに行きます。お願いします」
「お願いします」
 翔に倣って、雛も頭を下げる。香坂はしばらく呆然とこちらを見つめたままだったが、やがて口を開いた。
「主任、僕からもお願いします。棄権を少し伸ばして、あと一試合分陸央君を待たせて下さい」
 試合をする等の三人から言われ、国枝は険しくしていた表情を少し緩めた。
「……わかった。北の方にも指示しておく。次の試合の後、飛び入りでも試合ができるようにな」
「――有難うございます!」
「ったく、こんなこと初めてだよ。不戦勝になるかもしれない試合を棄権するなんてな……でもまぁ、お前ららしいけど」
 呆れたような、そのくせ満更でもない顔を残し、すぐに他の職員の指示に向かう。自分の腕時計を確認した香坂が、翔に向き直った。
「時間も無い。フォールになってしまえばその分時間が短縮されてしまうし、すぐに探しに行こう」
「はい」
「私も――」
「雛はここにいるんだ。すぐに試合ができるように、待機しておいた方が良いと思う」
 動きかけた雛を制した。もし陸央が見つかって、説得できたとしても、合流に時間が掛かっては意味が無い。それを悟ってか、雛は黙って頷いた。香坂と目配せし、二人でプラットフォームを走り出す。
「僕は北側をもう一度探しに行くよ。試合にも、すぐに戻れるように。もし陸央君が見つかったら、端末で僕か国枝さんに伝えてほしい」
「わかりました」
「翔君……有難う」
「俺じゃなくて、雛です」
 頭を振る。雛があの決断をしなければ、自分もこの試合を諦めていただろう。
 香坂と別れ、翔は不意にロビーの方へと足を向けた。万が一陸央が外に行ってしまっていたら、もう時間内に見つけることは難しい。けれど、まだそんなに遠くに行っていないとしたら。駅までだったら、走ればまだ往復ができる。そう思い、翔は海峰園の外に踏み出た。
 スタジアムのそれとは違うあまりにも無表情な空が、どこかあいつに似ている気がした。


 端末を持たずにいることが、これほど不便だとは思わなかった。
 まず、電車の切符が買えない。否――昔は実物の金銭で切符を発行していた名残で、買おうとすれば買えるのだ。けれど普段からダウンロードで済ませている陸央たちの世代には、硬貨で切符を買うという発想自体が無い。駅のコンコースまで来たものの、改札の前で呆然と立ち尽くしてしまったほどだ。トレーニングウェアのポケットに両手を突っ込んだまま唇を噛み、人気の少ない構内を折り返す。
 香坂の元に戻る気はない――というよりも、戻れない。今の海峰園の戦況はわからないが、自分は選手として許されない行為の果てにここに立っているのだから。彼にも父にも、もう合わせる顔は無い。けれどきっとこれでいいのだと、自分に言い聞かせた。夜の風の中に置いてきたはずの心細さが、また蘇りそうになるのを必死で堪える。
 結局、意味など見つけられなかった。
 勝っていたのに何故、と人は言うかもしれない。けれど、これは立派な挫折だ。技術的なレベルと、続けられるかどうかはまた別の問題だ。どれほど良い機体を持って、どれほどそれに見合った努力をしても、満たされない物は満たされなかった。それに一年目である今そのことに気が付いたこと自体、自分は幸福だとも思う。
 そう、思うことにした。
 駅を出れば、準戦を見に来ていたのであろう通行人もぽつりぽつりと歩いていた。タクシーでも探して自宅に直行し、そして、自分はもう二度と海峰園には足を踏み入れない。香坂も父も、繭も、もう自分には見向きもしなくなるだろう。けれどもう、それでいいのだ。
「――霧島!!」
 鈍くなっていた思考が、背後からの大声によって叩き起こされた。
 今、一番聞きたくない声だった。先ほど見た繭の横顔がちらつき、すぐに払拭する。振り向くのも悔しくて反応せずにいると、その足音はすぐ背後まで迫ってきた。
「おい! 霧島!」
「……何」
 仕方が無く顔を向けてやった。全力で走って来たのか、翔は息を切れ切れにして膝に手をつく。
「お前……どこに行くんだよ」
「どこって――帰るんだよ」
 何が悪いとでも言うように、陸央は答える。翔はすぐに気色ばみ、語気を強めた。
「何だそれ……どうしてそうなるんだ。自分がしていることが分かってるのか? どれだけの人に迷惑が掛かってると思ってるんだ」
 迷惑が掛かっていることくらいわかっている。けれど、それを認める気にもならなかった。数日ぶりに、できればもう見たくなかったこいつの顔を見る。が、陸央が描いていた予想が外れた。怒りと軽蔑しかないと思っていた翔の目には、別の感情が混じっていたからだ。
――何で、悲しそうにするんだ。
 こいつにこんな顔をされるいわれはない。困惑し、それでも陸央は続ける。
「そっちこそ、こんな所で何してるのさ。もしかしてわざわざ連れ戻しに来たわけ? 折角僕のおかげで白星が貰えるのに? こういう時には有難く貰っておけばいいんだよ。弱いんだから」
 普段は音楽で補っている防御壁を、言葉に棘を含むことによって強固にする。思い切り嫌な口調を作り、陸央は自分のコンプレックスを逆なで続ける元凶へと投げつけてやった。
「不戦勝おめでとう。良かったじゃん。やっと勝てて」
 けれど、翔は微動だにしない。悲しげな目をしたまま、絞り出すように言った。
「雛が――霧島がいないなら、棄権するって言ったんだ」
「はは。何それ。馬鹿じゃないの」
「お前だったら!!」
 勢いよく胸ぐらを掴まれる。けれど、翔は自分のその行為を咎めるようにすぐに手を離した。
「……お前だったらこうするからって、思ったからだ」
「あのねぇ――それってただの憶測でしょ? しかも何か勘違いしてるよね。僕はたとえ不戦勝を取らなくたって、他の試合で勝てるんだから痛くも痒くも無い。でも君たちは違う」
 不覚にも面食らったものの、陸央は息をついて翔に乱された襟元を直した。
「弱いくせに。宝生さんも君も、不戦勝を取らない健気な自分に酔ってるんだよ。ただの自己満足に、僕を使っているだけ」
 そうだ。誰も彼も――自分も、所詮自己満足でしか動かない。
 終わりにしよう。見栄にも意地にも、自分は疲れ切っている。
「もう――したくないんだ」
「したくないって……辞めるってことか? FMを」
「そう受け取って貰って構わないよ」
 茫然と問う翔に、出来る限り毅然と言い切ってやる。それは、あまりにも容易く言葉になった。
「橘川君は良いよね。そうやって、雛が雛がって言ってれば良いんだから。なのに、高校生で整備の免許取ったからって特別扱いされて。一番見て欲しい人に見て貰えて、理解して貰えて。必要とされて。何で自分がここにいるのかなんて、考えたことも無いんだろう。君に、僕のことがわかるはずが無い。……じゃあね」
 翔と海峰園に背を向け、陸央は再び足早に歩きだした。


――お前には、わからない。
 鼓膜のずっと奥で、昔に聞いた別の声がこだまする。手を離してしまったことを翔は瞬時に後悔した。早足で遠ざかっていく、男にしては狭い陸央の背中を見る。
 違う。
 自分に酔っているわけではない。自己満足なんかじゃない。足下の煉瓦を蹴りつけ、翔は走り出した。一度離れた距離が、瞬く間に縮んでいく。片手を強く握りしめ、もう一方の手を陸央の肩へとのばす。力いっぱいに掴んだそれは、驚くほどに細かった。