Sparrow!!--#7:Grow(11)

「――伊礼?」
 確かに繭だ。季節の割に少し厚手のワンピースを着て、栗色の髪を指で弄り、いつも通りの退屈そうな顔でフェンスに寄りかかってグラウンドを見つめている。陸央は目を疑った。準戦は観ないような口ぶりだったから、来ることは無いと思っていたのだ。落ちていた気分が不意に高揚してきた。学校でもたまにしか会えないのに、こんな所で出会うなんて。
 気付かれないように近付いてみる。後ろから肩でも叩いてやろうか。きっと驚いて、すぐにこちらを向くだろう。いつもみたいにむくれて、じとっと見つめてくるに違いない。そうだ。父の目には入らなくても、繭がこちらを見てくれればそれで良いのだ。自分がFMを続けている理由は、何も父のことだけではないのだから。彼女の目が自分を捉え、少し話せたらもっと良いし、もしかしたら試合に対しても何か言葉をくれるかもしれない。きっと、自分が準戦の話をしたからここに足を延ばしたのだろうし――そう自分に言い聞かせ、陸央は繭の細い肩へと手を伸ばす。けれど、
「なんでその子なの」
 周囲の喧騒に紛れることも無く、その言葉はやけにはっきりとこちらに聞こえた。
 触れかけていた手を止め、彼女の視線の先を辿る。グラウンドではなく、スタンド席の中ほど。翔と雛が並んで座り、何やら話をしている。翔が相槌を打ち、雛は嬉しそうに微笑んだ。手摺を握る繭の手のひらに、ごくわずかに力がこもる。
 無論、陸央の存在には気付かない。その一点に視線を注いだまま、繭はまたぽつりと呟いた。
「――翔君」
 彼女がその名前を言い終わるか終らないかのうちに――陸央は、伸ばしかけていた手を降ろしていた。
 大丈夫だ。まだ気付かれていない。陸央はできるだけ気配を殺し、何事も無かったかのように彼女に背を向けた。歩調を速め、インターバルのざわめきの中、元来た道を辿り直す。ポケットからイヤフォンを取り出したものの、本体である携帯端末を香坂に渡したままだったことにやっと気が付いた。
「何だよ……」
 思わず零れた悪態は、宙に消えることなく自らの胸に沈んでいく。
 何故――彼女が自分を見てくれるだなんて思ったのだろう。
 自分の都合の良さに呆れてしまう。普段からからかって苛めてばかりなのに、こんな時だけ慰めて貰おうだなんて虫が良すぎる話だ。菓子を差し入れてきた同級生と、何ら変わらない。結局、自分は自己満足で彼女に接しているのだから。繭の目に自分など入っていないことなど、彼女の目にずっと誰が映っていたかなど、とうの昔から知っていたのに。
 周囲の喧騒が、不快なノイズの如く際立って聞こえる。イヤフォンで音楽を聴けないことが、陸央の苛立ちと不安を煽った。音楽は自分にとってのシェルターだ。誰にも干渉されたく無く、暴かれたくない時、周囲の音を遮断することによって自分を守る。しかし、今はそれが無い。殆ど丸腰だ。誰かとぶつかっただけで絶叫してしまいそうなほど不安定な身体を引っ張りながら、陸央は足早に通路を進む。
 どんなに努力して、どんなに勝ったって、自分を見てくれることなど決して無いのだ。父も、彼女も。
 視界に何も入って来ない程の絶望が、抗えない波のように肩に押し寄せてきた。
 自分は、何のために飛べばいい?
 両脚はいつの間にかロビーを越え、海峰園の外に出ていた。同じ空には違いないというのに、頭上に広がる青はスタジアムのそれとは全く別の色をしている。無機質なほど静かな空を見上げ、陸央は振り返ることなく歩き出した。


「いない?」
「どうして」
 翔と雛、二人同時に声を発した。ダグアウト越しの空からは、フィィィィン――と、二つのランニングエンジンがはぜり合う音がする。現行の試合は半分を過ぎようとしており、どちらかが点を取ったらしく客席で拍手が上がった。
「わからない。今手の空いてる奴らで探しに行っているが、端末も香坂さんに預けたまんまで、連絡も取れないんだ」
 北側から急いでやってきた国枝が、息も途切れ途切れに言った。後ろには香坂もいる。確かに職員が手薄だと思っていたものの、こんな事態になっているとは思わなかった。現在、試合は十試合目。つまり、雛達の試合の一つ前まで駒を進めている。二人も今しがた試合待機の為にこのプラットフォームに来たばかりで、あまりにも急な事態に思考が全く追いつかないでいた。
――陸央が、いなくなったそうだ。
 搬入までは同伴した後、スタンドへ行くとだけ言い残して一人去って行ったという。それからは、誰とも会っていない。職員と香坂が探し回っていたが、試合時間が差し迫ってきたためにやむなくこちらに来たのだ。勿論、今も他の職員が陸央を探している。
「翔君、宝生さん……本当に申し訳ない」
 国枝に付いて来ていた香坂が、前に出て頭を下げた。香坂さんの所為では無いです――という言葉が思わず出かけたが、翔はそれを喉の奥に押し戻す。二人いて初めて選手に数えられる以上、整備士と操縦士は常に連帯責任だ。それは例え、陸央と香坂のように年齢差や雇用関係があっても同じことである。
「何か、トラブルが起きたりとかは?」
「そうであって欲しいが、今のところそんな報告は上がって来ていない。海峰園を出ている可能性もある」
 ライダースーツに着替えた胸を抑え、雛は信じられないという顔をしている。勿論、翔だって信じられない。陸央の性格上、故意によるボイコットはどうしても考えられなかった。少々捻くれている部分はあれ、こうしたルールには厳しい面も持つからだ。しかし、冷静な表情を保ったままの香坂は、彼の帰還を半分諦めているように見えた。
 試合進行を管轄する職員から目配せを受け、国枝が香坂と翔と雛を交互に見た。
「どうする。行程上、試合の繰り下げは一試合が限度だ。準備も合せれば、待てるのはあと二十分ってところか」
「はい。もう、あまり時間が無い。――……宝生さん。この試合が終わっても、あの子が現れなければ……僕たちは、棄権しようと思う」
「え――」
 急な彼の発言に、雛が息を飲む。
 翔も押し黙った。あいつは一体何をやっているんだ――という、怒りにも似た感情が湧き出てくる。本戦に行ったとしても、陸央のためになるかわからないと語った香坂も思い出す。もしこれが本人の意思によるボイコットならば、自分の一番の理解者を、陸央は裏切ったことになる。
 いつも自分が一番真っ当だという顔をして。努力だってできて。なのに、何故こんなにも容易く手を離してしまうのか。何故何も言わないまま、香坂にこんな顔をさせてしまうのか。
「香坂さんと霧島が棄権になると、どうなるんですか。今日の試合は」
「お前らの不戦勝だ。試合自体はしていないが、勝率として加算される」
 苦虫を噛んでいるような顔で、国枝が答えた。
「そんな」
「元からそういう決まりなんだ。例えトラブルでやむを得ないことだとしても、無断欠場には変わりないからな」
 国枝の言葉を聞いて、雛は俯く。けれど一瞬の沈黙の後に上げた顔には、何らかの決意が浮かんでいた。
「それなら――私も、棄権します」