Sparrow!!--#7:Grow(06)

 部屋を出る間際にふと思い出し、通学鞄に入れたままだった菓子の箱を取り出した。そのまま母の部屋をノックする。扉はすぐに開き、眠そうな顔をした母が顔を出した。
「どうしたの? りっくん」
 おっとりとした口調で首を傾げる。父にとって二番目の妻にあたる母は、全てにおいて良く言えば寛容で、悪く言えば無頓着だった。FMについては応援してくれているものの、詳しいことには踏み込もうとしない。都合の良さ、あるいは自由さと理解は時に反比例する。好き勝手にさせて貰っている分、陸央にとって母の傍は悩みや弱音を吐ける場所ではなかった。だから――今抱えているどろついた気持ちでは無く、綺麗に包装されたままの菓子の箱を、何も言わずに母に押し付けた。
「これは?」
「あげる。学校で貰ったんだけど、食べられないから」
「あら、駅前のケーキ屋さんのね。ありがとう。明日、海都(かいと)君にも出してあげるわ」
「え……」
 不意に出た嫌な名前に、陸央は露骨に嫌な顔をした。海都は、四歳上で腹違いの次兄である。
「あいつ、帰って来るの?」
「ええ、九時過ぎの電車だそうよ。大学が連休で、週末まで居るんですって。りっくんはどこに行くの?」
「ちょっと走って来るだけだよ。すぐ帰るから大丈夫」
「そう。気を付けてね、早く帰ってくるのよ。もうすぐ海都君も帰って来るから」
「うん……行ってきます」
 帰って来ても、どうせあいつとは話もしないが。
 母には悪いが、顔も見たくないのだ。かち合わないように、むしろ今の内に外に出なければならない。乱雑にスニーカーを履いてノブを掴み――しかしあろうことか、一拍早くドアは外側から開かれてしまった。
「あ――」
「何だ陸央。どこ行くんだ」
 思った傍から。陸央は自分の間の悪さに辟易する。ただいまとも久しぶりとも言わず、海都は出会い頭からこちらを見下ろしてきた。
「どこって……走りに行くんだよ」
「走りに? 何でまた」
 言いながら、こちらの頭からつま先までをじろりと眺めまわす。そして、自己完結したようにふっと鼻で笑った。
「お前、もしかしてFMやってんの?」
「……やってるけど。今年から準戦デビューしてる」
「まじかよ。親父の冗談じゃなかったんだな。で、PRにはなってるのか? テレビに出たりとかさ。ほら、誰だっけあの、胸のでかい女選手みたいに」
「桜木選手? もう引退してるよ」
 兄が話題に出した選手が、現在自分を教えていることは黙っておいた。陶子は現役時代は競技の知名度アップのためにメディア露出に取り組んでいたこともあり、FMマッチには詳しくないが彼女のことは知っているという層は多い。ただ、こいつのように下品な部分しか覚えていない者も勿論少なからずいる。
「まだ準戦だし、そういうのは無い。元々本戦に上がってからじゃないと、企業の宣伝はできないんだ」
「なんだ。つまんねーの」
「でも僕は今無敗で来てるから、父さんの期待には応えてる。喜んでくれてるよ」
 なけなしのプライドが邪魔をして、「きっと」という単語は付け足さないでいた。のに、それが裏目に出てしまった。
「へぇ……それ、本当か? 親父が直々に言ったのか? あの親父が? お前に?」
「――っ、」
 普段一緒に住んでも無いお前が、何で知っているんだ――と言いたいほどに、海都の指摘は的確だった。実際、陸央はここ二ヶ月ほど父の顔を見ていない。準戦が始まってから一度も、通話どころかメールすらも受け取っていないのだ。
 陸央がFMを始めたのは、元はと言えば父の勧めだ。小学生の時にFMの試合に何度も連れて行き、楽しそうだろうお前もやってみたいだろうと自分に擦りこんでいった。そしてこちらがその気になれば、すぐに最新のトレーニング設備を屋敷内に完備した。見学しやすいようにと海峰園に融通を利かせてもくれたし、フロンティアという立派な機体と、香坂という経験豊富な整備士を与えてくれた。期待されている。じゃなかったら、これだけ投資して貰えるはずが無い。
「……忙しいんだよ、父さんは。仕事がひと段落したら来るんじゃないかな」
「お前さ、いい加減気付いたら?」
「何――」
「親父の良い玩具だってさ」
 こちらを遮った兄の言葉に、陸央は口を噤んだ。何も返せないことを知って、海都は更に続ける。
「お前は、親父の玩具だよ。俺や兄貴と違って、囲いの子だから会社には入れたくない。だけど手放すのはもったいない。だから、会社の名前を売るためのパンダの役をあてがった。気が向いたら金かけて世話して、気が向かない時は放置。万が一チャンピオンになったら鼻高々だし、挫折して辞めたとしても、それを理由に干せる。だろ?」
「――……どいて。時間が無い」
 答える代りに低く息を吐き、兄の横を無理矢理すり抜ける。
「はは、何だ。自分でもわかってんじゃんかよ」
 背後でまだ海都が何か言う声が聞こえる。けれど、陸央はもう止まりもしなかった。街灯のみがぽつぽつと灯る夜に走り出て、そのままいつもの道へと乗る。近所を一周するだけの簡単なコースだ。
 最新技術を詰め込んだフロンティアの緩やかな装甲を撫で、父は言う。これに乗って、我がキリシマホテルズの名前を全国に広げて欲しい。私はFMマッチの恩恵があったから、ここまでのし上がって来れた。だから、FMには感謝しているんだ。陸央がチャンピオンになれば、これ以上に嬉しいことは無い。応援するよ――
 けれど、実際デビューした後はどうだ。折角免許を取ってエントリーしたというのに、その上これまで全勝しているというのに、父は祝いの言葉一つくれない。免許も出場も勝利も、出来て当たり前だと父は思っている。
 当然だ。今まであらゆるトレーニングを行い、操縦士候補生の壁である機体も整備士も、父が金を出して用意した。FMに関することで、陸央が困ることは何も無い。父が持っているのは、だからこその期待だ。
 それが何を意味するのか、陸央だってちゃんとわかっている。それでも今まで必死に、言葉に出さずにやってきたのだ。
 自分は本当に、ここにいるのだろうか?
 稀に頭に飛来する、他愛のない疑問が浮かんだ。どれだけ努力しても、所詮上っ面しか見て貰えない。勝ったという結果だけをなぞられ、自分が抱えている漠然とした不安や虚無感を理解する者は決して現れない。家族も同級生も、職員も他の選手も、雛も翔も陶子も、香坂も――繭も。周りにどれだけ人がいようとも、自分はどこまで行っても孤独だ。
 渇いたアスファルトを蹴り、初夏の香の混ざる夜を行く。このままもう戻れぬほど遠くに行っても、誰も何も気にしないだろう。
 どうもしないよ。僕がいても、いなくても。そうだろう?
 上がっていく息の中で、陸央は今度こそ、少しだけ泣いた。