Sparrow!!--#7:Grow(01)

 自分は、本当はここにいないのではないか。
 と、時折思うことがある。

 音が漏れるかもしれない――という懸念を抱きながら、じわりじわりとボリュームを上げていく。イヤフォンを通してなだれ込んでくる電子的なノイズは鋭く、実に作為的で、滑空時の空気圧で生じるノイズとは比べるまでも無く別次元のものであった。
 リズムを取るように階段を駆け下り、足早に昇降口へと向かう。端末のデジタル時計は四時半を示している。定時よりも三十分オーバー。大事な練習時間が削られてしまった。学校行事が近いこともあり、ホームルームが長引いたのだ。
 五月の最終週に行われる体育祭。去年は一応参加したが、今年はしないかもしれず、そのため話し合いに参加する気がほとほと沸かなかった。周りもそれを承知しているのか、役員や準備の相談は自分には全く回されない。その上委員をしているクラスメイトには、霧島には試合があるだろ――なんてことも言われた。それが好意から来るものなのか、揶揄から来るものなのかは、まあ、自分は知らなくても良いことだが。
 歩きながら小さく欠伸をする。練習が始まれば、眠いだなんて言ってられない。制服の赤いネクタイを緩め、ポケットからミントタブレットのケースを取出し、一粒口に放り入れた。白い錠剤はすぐに溶け、鼻孔から目へと刺すように通り抜ける。聴覚からの刺激と味覚からの刺激にシェイクされ、脳は徐々に切り替わっていく。下駄箱のリーダーに学生証を読み込ませて開け、他のだらだら動く生徒達の三倍の速さで履き替える。よーいドンの要領で再び駆け出そうと一歩踏み込み、
「――あ!」
 短い階段の麓に立っていた女生徒が一人、こちらに向かって小走りに近づいてきた。急遽、勢いを殺す。ポケットの端末を弄って音楽を止めると、放課後の呑気な喧騒が耳元に舞い戻ってきた。彼女の口元が、こちらの名前の形に動く。
「あの、霧島君」
「ん?」
 隣のクラスの女子だ。去年同じクラスだったけれど、名前は覚えていない。
「私、準戦が好きで、毎週見に行ってるの。凄いね、ルーキーで一番勝ってるんでしょ?」
「まあね」
 もう何人かに言われていることもあり、陸央は敢えて素っ気なく答える。昨日――月曜日の朝に公表されたばかりだが、校内ではもう既に広まっていることだった。FMマッチ天馬リーグ、準戦が始まって約一ヶ月。今季の新人で唯一白星を上げ続けているのが、二年特待科の霧島であると。
 イヤフォンはさすがに外したが、歩みを止める気は無い。こちらに歩調を合わせながら、彼女は鞄の中から何かを取り出した。
「今日も練習? これ、差し入れなんだけど、どうかな。練習の前にでも食べて」
 十センチ角ほどの箱だ。市販だが、駅前の市内ではかなり有名な洋菓子店のロゴが入っている。彼女は照れているふりをして、上目づかいでこちらの顔色を伺っている。
「ありがとう。お腹いっぱいになりそうだ。大事に頂くよ」
 彼女の期待に応えて、陸央は笑顔で返した。受け取った箱は思ったよりずっしりとしていて、見かけのボリュームよりも値の張るものだと予測する。
「頑張ってね。私、応援してるから。今度、海峰園でも声掛けるね」
「……うん」
 受け取ったことに満足したのか、彼女は嬉しげに離れたところで待機していた友人たちの所に戻って行った。と同時に、陸央は再び正門へと駆け出す。
 相槌を打ったこちらの表情を、彼女は果たして見ていただろうか。
 受け取った時のこちらの発言が、紛れもない嫌味だったと気が付いただろうか。
 滑空中の体調不良や嘔吐を防ぐために、その直前の最低二時間は腹に物を詰めない方が良いのだ。練習前、つまりFMでの滑空前に進んで固形物を食べる操縦士など、いるとすれば余程の初心者か、シェイカーになるのが趣味だという変人くらいなのである。これは操縦士専用のライダースゼリーという食品が推奨されているくらい周知のことで、選手に差し入れしようと思う程のFMマッチの――しかもシェイカーになる頻度が高い準戦のファンなら、知っていて当然の知識だ。
 歩きながら高そうな箱を見、ふっと溜息とも自嘲ともつかない息を漏らす。彼女にはああ言ったが、練習前には食べられない。し、自分は夜間の食事も量を制限している。誰かにあげようか、それともいっそ――などと考えを巡らせていると、正門前の広場に、今学期に入って初めて目にする栗色の髪が見えた。
「伊礼(いれい)!」
 今度はこちらから大声で呼ぶと、彼女はいつもどおりの鈍い動作で振り返った。肩にかかる程の癖の無い髪を、細い指にくるりと絡めている。
「霧島くん……どうしたの」
 陸央が所属する特待科と、彼女――伊礼繭(まゆ)がいる普通科では校舎が違う。移動教室等ではともかく、昇降口なんかは西と東で完全に別れているから、登下校時にこうして会うことは殆どと言って良いほど無い。
「いや、それ僕の台詞だし。何でこっちの門に? もしかして迷子?」
 茶化してやると、彼女は幾分かむっとした表情を作った。口を真横に閉じて、何も言わずにじっとこちらを睨む。
 あまり頭の回転が速くないからか、こうして非難の目は向けても口では何も言って来ないのを、陸央は知っていた。し、元の顔があどけないからか睨まれても全然怖くない。背も小さく、制服の茶色いワンピースに不釣り合いな小学生みたいな体系をしている。学校では大人しくしている上に、準戦のエントリーすらまだしていないため、彼女が操縦士候補だということを知るのは校内では恐らく自分だけだろう。
 その避難轟々な様子に比例して、こちらは自然と顔が緩んでくる。FMからひとたび離れれば一切の集中力に欠ける彼女が、まじまじとこちらを見て来るのはこういう時だけだからだ。
「迷子じゃないならさぁ、何でここにいるんだよ? 何か言えないの?」
 もう一度聞いてやる。眉根を寄せたまま、繭は真一文字に結んだ口をたどたどしく開いた。
「先生を、探しているの。部活棟の方にいるのかなって、思って。保健室、誰もいなかったから」
「ふぅん。何? 体調悪いわけ?」
 いい加減質問ばかりだな。そう思ったけれど、繭と話す時は大概こんな状態になるのだった。突っかかるか、問い質すか。そうでもして気を引かなければ、彼女はこちらに長く気を留めてくれない。
 操縦士候補生である癖に、繭は身体があまり丈夫でない。持病を持っているというわけでは無いが、とにかく体力が無いからすぐに風邪を引くのだ。蓄えたカロリーを全て集中力に使い、他の部分に回せてないのではないかとすら思う。体のどこを取っても華奢で、背だって陸央よりもずっと低い。
「悪くないもん。いつも、練習の前に熱測るんだもん」
 言いながら、彼女は陸央が持っている物へと視線を滑らせた。
「それは?」
「……ふふん。さっき貰ったんだ。隣のクラスの女子だよ。僕のファンなんだって」
「ふぅん――ほんとに?」
 じとっ、とこちらを見てくる。どういう意味だ――そう言おうとしたが、続かなかった。これをくれた彼女が自分のファンだと、実際陸央自身も思っていないからだ。
 答えに窮している間に、繭は興味を失くしたようについと身体を翻した。しまった。兎のようにぴょこぴょこと上下する彼女の背中を、反射的に追いかける。
「どこ行くんだよ」
「べつのところ」
「ちょっ、と、待ってって」
 後ろから手首を掴んだ。これでどうやって機体を操れるんだと言う程細い腕は、陶器のように冷たい。こうして同じ高校になる前からの付き合いだが、たまにこいつは人間以外の何かなのではないかと感じることがある。けれど振り返った彼女の表情は、予想外に人間臭い不満満々なぶすっとしたものだった。
「なに?」
「っ、ええっとさぁ――」