Sparrow!!--#6:Burst(12)

 別れた場所に一番近いゲートだったのだが、見当違いだったようだ。雛は元来たスタジアムの喧騒を抜け、再度建物の中に入った。先ほどは何とも思わなかったのに、一度日の元に出た後だと日影がとても冷えて感じる。
 あのね、お兄ちゃん――試合中でも尚人が残る廊下を歩きながら、昨夜の兄との会話を反芻する。意識は、昨日の夜のリビングへと戻っていった。悦も憂いも無いただ白いだけのテーブルクロスを見つめながら、雛は続ける。
「――明日の相手、絶対に勝ちたい人なの。でも翔は、初戦だから勝ちにはこだわるなって。それが、何だか納得できなくて」
 結局、帰路に着くまで翔とは最低限の会話しかできなかった。無理に勝とうとしなくて良い、だなんて言葉が彼の口から出て来たのもショックだったし、それをどう伝えるべきかもわからなかった。翔と黎二達は幼馴染みであり、雛なんかよりもお互いを知っているし、その分対抗意識もあると傍で感じていた。負けたくない、勝ちたい。そうした自分と同じ気持ちを、彼も持っていると思っていたからだ。繋いでいた手から力が抜けて、するりと離れてしまうような感覚。それがまだ、雛の身体の奥の方にこびりついている。
 あの日――望月瑠夏が初戦で破れ、前期チャンピオンが那智清天に決まった星望杯の日。黎二本人に面と向かって「負けない」と宣言してから、自分はずっと彼を意識してFMに乗ってきたのだ。この半年間、翔と一緒に本当に数多くの選手の試合映像を見て来たが、そのどれを見ても彼に当てはめてきたし、模擬試合もそのつもりで行った。胸の中でちりちりと放電し、今にも発火しそうなこの気持ちは、これまで生きてきた中で持ったことの無いものだ。ピアノで兄と比べられることから逃げ、家の体裁を守る両親に従っていた頃のままでは、きっと一生この感覚を知ることは無かっただろう。けれど――
「――翔君がそう言うのもわかるな」
「え、」
 兄の返答が、思考を切断する。
「だって……って言っても、これは素人の解釈なんだけどね――整備士って、操縦士を守るためにいると思うから」
 返す声も出ない。雛が失念していたことを、あまりにもあっさりと口にされたからだ。
「失敗しないようにって思う程失敗することは、僕にだってよくある。だから、変に力を入れない方が良いって考えは間違ってないと思うよ。特にFMは危険なスポーツだ。操縦士は勝ちに行きたいかもしれないけど、もし雛が事故をしたら、翔君は自分を責めるんじゃない?」
 駿は立ち上がり、窓辺へと向かった。
「ただ雛からすれば、負けても良いって思うのは違うかもね」
兄の手によってほんのわずかだけ開かれた窓から、冷たくも無く温くも無い、しかし清浄な風が入り込んできた。
「ねぇ雛、思うんだけど――例えばさ、操縦士が鍵盤だとして」
「鍵盤?」
「うん。あ、ピアノで例えたらなんだけどね。操縦士が鍵盤なら、整備士は何だと思う?」
 少し考えて、雛は答える。
「ペダル、かな」
「僕もそう思う。鍵盤で鳴らした音を別の角度から操作して、表現の幅を膨らませてくれる。演奏、FMでいう所の滑空を助けてくれる役割を、整備士は持っているよね」
「……うん」
「僕は小さい頃、ペダルが上手く踏めなかった。ちゃんと使えるようになったのは、小学校に入ってからかな。それまではずっと、鍵盤だけで弾いていたんだ。簡単な曲なら、ペダルは無くても弾けるしね。でも、今ではそんなことは考えられない。ペダルの調子が悪いと曲にならないし、焦って鍵盤だけを夢中で鳴らしても、完璧な演奏はできないから」
 雛も一時はピアノを弾いていた身である。その感覚は、今でもよく覚えていることだった。こちらが頷くのを待って、兄は外に視線を移す。
「もっとも、鍵盤を動かす手を止めたら演奏は止まってしまう。それと同じように、雛が試合に対して妥協をすることはそのまま負けに繋がるし、そう思うから納得ができないんだと思う。でも、演奏を貫き通すことと、良い演奏をすることは違う……上手く言えないけど、選手になって試合をして、勝っていくっていうことは、雛だけで抱え込むことじゃないんじゃないかな」
 彼の言わんとしていることが、風に乗ってこちらまで届いた。雛は再度頷き、そして――
「うん……そうだね、お兄ちゃん」
 意識をここ海峰園の廊下へと戻し、歩きながら、グローブを填め直した手のひらを見つめる。
 翔を傷つけず、周囲に認めて貰う事。先ほどの彼女や、陸央、他の操縦士達。そして誰よりも、今日の相手である彼。自分の力で戦って、勝たなければならないと、自分の気持ちを認めて貰うことはできないだろう。そればかりを思っていた。昨日の夜までは。
 自分は、抱え込んでいたのだ。一人で。
 けれどこの戦いは――FMマッチは、そもそも一人でするものではない。
 グラウンドから、機体が空を切る音が聞こえる。廊下にはまだ人がいるけれど、やけに静かに感じられた。漸く気持ちに整理がついたのと同時に、自分の鼓動だけが際立って大きく聞こえる。早く翔に合流しよう。そして、試合までに話をしよう。と、
 俯いていた視界に入り込んできた影に、雛は立ち止まった。
 すれ違う長身。黒いトレーニングウェアの無駄の無い体躯。彼の方はこちらには目も触れない。雛は、反射的に目でその影を追った。
「あ、あの、すっ、す、周藤さん」
 背中に向けて声を振り絞る。名指しにしたのが効いたのか、彼、黎二は律儀にも足を止め、肩越しにこちらを睨んだ。
「何だ」
「――ええと、」
 眼差しに気圧され、言葉が詰まった。黎二は少なからず苛ついたように舌を打つ。まともに話をしたのは、初対面の時以来のことだ。
「用も無いのに話しかけるな」
「あっ、ありますっ!」
 廊下にいた誰もが振り返るような、自分でも驚くほどの大声を出していた。
「用、あります。私、貴方にっ、」
「勝つってんだろ」
 思考を先回りされ、雛は口を噤む。振り向いた彼は、何故か少し愉快そうに続けた。
「前にも同じこと言ってたよな。ままごとは終わったのか? それとも、まだやってんのか?」
 ただ、その目は笑っていない。試合までまだかなり時間があるというのに、既に獲物を見つけた猛禽類の眼差しをしている。喰われる――反射的にそう感じ怯みかけたが、そんな自分を押し潰すかのように雛は両の拳を強く握りしめた。
「最初から、そんなつもりじゃないです。私も翔も、本気です。それに――」
 睨み返してやる。もう一度。あの時の様に。
「私は、貴方に勝たないと……操縦士に、なれない」