Sparrow!!--#6:Burst(11)

「それで? 自分が防げる自信ないから、今日はしてくるなって?」
「そうじゃない。そうじゃないけど」
 頭を振る翔の、気持ちだけはわかる。初めてのフォールとその対処は、整備士にとっては一番身が縮むことだからだ。自分にも覚えがあるからこそ、こればっかりは翔の不安を馬鹿にはできない。
 黎二でもそうだが――操縦士は、落とされることよりも負けることの方に恐怖を感じている節がある。空を切る感覚自体に慣れてしまうからだろうか、勝負への気持ちの方が優先されているからだろうか。フォールに限ったことではないのだが、滑空中のありとあらゆることが危険な感覚をあまり持っておらず、それが整備士との間隔の際に繋がってくるのだ。
「ま、勝負を決めるのは何もフォールだけじゃないし、黎二だってそれだけが手段じゃない。フォールのことばっかり考えてると、今度は別の方向から足元掬われるよ」
 ただ今の翔の口調では、自分が抱いていた危惧は空回りに終わったらしい。昨日初めてフォールをし、しかも翔がこれほどその感覚に慄いているということは。
 雛は、フロースピンを習得していない。
 いや――元々その確率は低いとは思っていたが。
 そして、確信の笑みを誤魔化すように言葉を続ける。
「チャンピオンになるんだろ? びびんなとは言わないけど、試合前に片方が弱気でどうすんだ」
 翔が顔を上げる前に、颯介は階上に向かって身を翻した。数段上から、こちらを仰ぐ対戦相手を見つめ返す。
「今日は勝たせて貰う。俺達が」


 もう手慣れてしまったもので、着替えにはそれほど時間はかからなかった。
 グローブを小脇に抱え、蛇口から流れ出る水を素手で受け止める。もう春といえどその温度はまだ身が縮むほどだが、それでもぎゅっと目を閉じて顔を洗った。三度繰り返した後すぐにタオルに顔を埋め、雛は深く長い息をゆっくりとつく。
 今日は、まだ翔とまともに話せてはいない。
 プラットフォームにスパローを搬入した後、スタンドに行こうと促されたのを断って一人になった。まだ、雛には一人で整理したいことがあったからだ。
「あー! 宝生さんだ」
 洗面所を出た所でいきなり名前を呼ばれ、思わず固まった。昨日冴羽立葵と会った時もそうだったが、自分は想像以上に顔と名前を知られている。振り返ると、トレーニングウェア姿――操縦士なのだろう女性の選手が、快活に手を振っている。彼女は小走りに近づいてきて、雛の隣に並んだ。
「あたしのこと覚えてる? 選手登録の時に一緒だったんだけど」
「はい……こんにちは」
 顔には覚えがあったものの、名前までは出てこなかった。大学生くらいだろうか。彼女の言うとおり、選手にエントリーした際に同じタイミングだったように思う。
「今日って何試合目?」
「ええと、二十八です」
「結構後じゃん。着替えるの早いんじゃない?」
「落ち着かなくて」
「ふぅん」
 本当は、着替えくらいしかすることが無かっただけなのだが。
 雛が到着した時からそれほど時間は経っていないはずなのに、通路を行き来する人の量は目に見えて増えていた。選手は勿論、一般客や職員の間を抜けながら、彼女はさも今思いついたかのように声を高める。
「そういえば、宝生さんのとこの整備士君ってさ」
「はっ、はい」
「やだ、そんな剣幕張らなくて良いよ。ちらっとしか見かけてないけど、夏に話題になってた高校生整備士だよねって思って。もしかして同じクラスなの? 学校で」
「ああ、はい」
 この話は、既にもう何度されたかわからない。
「羨ましいなぁ、同じクラスに整備士がいるって。私なんて二年もつかなかったんだから。そんな簡単に選手になれるなんてラッキーだよ。どうやって落としたの?」
 落とした――これも、言われたのは初めてではなかった。品が良いとは到底思えず、雛はどうにもこの表現が好きになれない。翔を木の実か何かだと勘違いしているのではないか、とも思う。
「落とした、というか……私が勝手に頼んだんです」
「ええ? それだけで付いていくれたんじゃないでしょ。やるなぁ、大人しそうなのに」
 言った後、彼女は口元だけで笑った。頭から足の先までこちらを見回し、続ける。
「まだ高二なんだよね? ピークまであと十年くらいあるなんてさ、焦る必要無くて羨ましい。すぐに飽きても潰しが効くしさ。良いよねぇ、若いって」
 ほとほと反応に困り、雛は俯く。交互に床のリノリウムを蹴る両足は、だんだんとスピードを上げていった。
「ま、免許取ってすぐ選手になるのもそれはそれで怖いけどね。あたしは整備士が付かない間も一応ずっと訓練できたし、まぁまぁ上手く乗れるつもり。宝生さんは? 今日、勝てそう?」
「ええと……――勝ちたい、です」
「へぇ。勝ち目あるんだ。さすがだね」
 雛の歩調が上がるにつれて、彼女の声音は次第に重くなっていく。無言のままスタンドに通じるゲートを抜け、彼女は頃合いだとばかりに立ち止まった。
「じゃあ、あたし行くね。宝生さんの試合、楽しみにしてるよ」
 小さく手を振り、人で埋まりつつあるオレンジ色のスタンドへと消えていく。その背中を見送りながら、雛は静かにため息をついた。
『――第二試合開始まで、あと三分となりました――』
 不意に響いたアナウンスに、雛は空を仰ぐ。気が付かなかった。自分がぶらぶらしている間に、一試合目が終わっていたらしい。スタンドの人々はざわつき、つい先程展開されていたはずの試合の内容、そしてこれから始まる試合の情報を話合っている。見慣れた姿を探し、雛は歩きながら視線を彷徨わせた。
 すぐに飽きても潰しが効くし――聞いたばかりの彼女の言葉が、また腹のあたりにわだかまっている。本気だと思われていない。自分の気持ちが周囲に認められていないことがこんなにも苦しいことだなんて、思いも寄らなかった。
――お遊びだって言われても仕方ないよ。
――知ってる? 君の事、そういう風に捉えてる操縦士も少なくないんだよ。
 昨日陸央に言われたことは、そっくりそのまま実感できていた。今のように批判的な視線で絡んでくる操縦士は性別年齢に関係なく複数人いたし、基礎講習中でも露骨に陰口を叩かれたこともある。陸央の様に、面と向かって示してくれる方が有難いくらいだ。
 ただ、翔の前では言ってほしくなかったのだけれど。
 スタンドを見渡す。四月の空は夏のそれよりも淡く透き通っていて、太陽は未だ東側に留まっている。去年の九月に初めてここに来た時と比べ、一般客の姿が多いのは初戦だからだろうか。ほどなくして試合が始まり、カウントダウンと共に二機のFMが空に放たれた。
 雛の名前は、想像以上に選手たちの間に広まっている。それはひとえに、翔自身が有望視されているからだ。彼が高校生で整備士免許を取り、FMを開発した学者の孫――翔本人からでなく、周囲から聞いて知ったことなのだけれど――であることのプレッシャーが掛かっているのは、むしろ自分の方だったということに、この半年間で雛はまざまざと思い知ってきた。
 それ故に、だ。それ故に、翔にはこのことを知って欲しくなかった。彼が人一倍優しいことを雛は誰よりもわかっているし、もし知れば、彼がきっと傷つくだろうことも簡単に想像できた。自分が他の操縦士にどう思われているかなど、知らない方が良かったのだ。