Sparrow!!--#6:Burst(09)

 ほどなくして演奏が終わり、兄は静かにピアノの蓋を閉めた。グラスにアイスティーを注ぎ、雛の向かいに座って一息つく。
「ごめんね、食事中にせわしない曲で」
「ううん。全然大丈夫だよ」
 雛は知っている。こちらが食事中寂しくないように、敢えてこの時間を選んで練習していることを。そんな兄なり気遣い自体が嬉しかったから、演奏される曲は何だって良かった。FMを始める前まではあれほど疎んでいたのに、今では嘘だったかのように素直に接せている。
「いよいよ明日だね。父さん達は予定が入って残念だけど、僕は行くよ」
「うん、ありがとう」
 年度初めであるためか、両親はどちらもこの時期は多忙だった。特に父は惜しそうにしていたけれど、雛としては実は少しほっとしていたりするのが少し申し訳ない。空いた皿をまとめ、雛は目の前でくつろぐ兄を見た。
「お兄ちゃんはさ、コンクール……本番の演奏の時とか、いつもどんな気持ちでいる?」
「僕?」
「うん……私、迷ってるの。明日どういう風に臨めば良いのか……だから、お兄ちゃんはどうなんだろうと思って」
「そうだなぁ。演奏中の事って、実はあんまり記憶に無くて……って、ええと、これじゃ参考にならないね」
「ううん。続けて」
 思い切り頭を振った。長い間ピアノに関する話を避けていたからだろうか。兄とこういった話をするのは初めてで、純粋に興味深い。駿はグラスを置き、鍵盤に沿えるようにテーブルに指を翳す。あれほど激しい演奏を奏でていたとは思えない程、細く綺麗な指を。
「ええとね、上手く言えないんだけど――コンクールだけじゃなくて、今みたいに通して弾く練習でも同じなんだけどね。あまり脳は使っていない感じがする。と言っても、しまいこんでるんじゃなくて――まるで、宇宙にいるみたいにな」
「宇宙……?」
「無重力状態って言う方が近いかも。自分の身体っていう境界線が無くなって、ピアノと、もっと言えば、曲と一体化したようなそんな状態になる」
 想像以上に抽象的な答えだった。雛は自分がピアノを弾いていた頃のことを思い出してみたが、今兄が言ったような状態に昇り詰めたことはたったの一度も無い。ただ、FMに乗っている感覚でなら――
「でも、ピアノは譜面通りに弾くのが前提だからね……僕が身体で覚えているからっていうのもあるかもしれない。雛には対戦相手も翔君もいるし、感覚が全然違うから、役に立たないかもだけど」
「そんなことないよ。わかる気がする」
 話を続ける兄に、雛は最再度首を振った。同じだ。自分がFMに乗っている時だって、機体も風も自分の身体も、翔との距離さえも、感覚的に無くなってしまう瞬間が稀に訪れる。答えた雛に微笑んで、駿は両手をひっくり返した。白いばかりの手を眺める。
「不思議なのは、そういう状態になっても漫然と弾いてるだけじゃないことなんだ。曲を進めている感覚は確かにあって、変な自信が出て来る。僕は絶対に間違えない。世界中の誰よりも上手く弾けるし、直前まであった、失敗を恐れたり諦めようとする気持ちがいつの間にかどこかに消えている」
 恐れ、諦め。
 無理に勝とうと思いつめなくて良い。結果は気にしないように。
 翔の台詞が脳裏を過ぎった。視界が兄から滑り落ち、ただ白いだけのテーブルクロスへと移る。
「あのね――お兄ちゃん。もう少し、聞いてくれる――?」

 噛み殺そうと思った時には既に遅く、気の抜けた欠伸はいとも簡単に口元をすり抜けた。
 たった一日だけの違いなのに、今朝は昨日よりもずっと温かく感じられる。オレンジ色の座席の群の中から、颯介は昨日いたグラウンドを見下ろした。来てからずっと取り掛かっていたホムラの最終チェックを終え、プラットフォームから移動して来たのだ。あとは自分達の出番の二試合前くらいまで、じっと観戦していればいい。眠気交じりにまばらな周囲を眺めていると、斜め後ろから肩を叩かれた。
「よっ。もう調整できたのか?」
「おふぁようございまぁす、国枝さん」
 手でも空いたのだろうか。こちらの気の抜けた挨拶に、国枝は苦笑しながらどかりと腰を下ろし、職員のロゴ付きジャンパーのポケットから煙草を取り出す。
「なんだ、眠そうだな」
「だって、五時っすよ今日……黎二がわざわざやって来て、叩き起こされましたもん」
 昨日と真逆だ。しかも自分が通話で済ませた家二軒分の距離を越え、文字通り拳で起こしにやって来た。打って変わったやる気満々のトレーニングウェアで、今すぐドッグに行くと言って聞かない。育ちざかりのドーベルマンか。しかも、試合は中盤である。朝っぱらからこんなにアドレナリンを垂れ流しているなんてと心配だったが、今は大人しく海峰園周りをジョギング中である。
「周藤は試合好きだもんな。数ヶ月できなくてよっぽど溜まってんだろ」
「まぁわかりますけどね……ああなるのも。模擬試合じゃ物足りないっていつも言ってるし」
「はは。あいつの相手は大変だって、うちのテストドライバーも言ってるぞ……っておい、正反対のが来たぞ」
 颯介は振り返る。彼の視線の先、建物内部に繋がるゲートから、丁度冴羽立葵が歩いてくるのが見えた。試合まで間があるためか、ライダースーツではなく黎二と同じようなトレーニングウェアだ。颯介と国枝に注目されていることに気付いたのか、彼は無表情のままゆっくりとこちらに近づいてきた。
「よ、立葵」
「国枝さん、おはようございます」
「たっきーおはよー。茉莉ちゃんは?」
 長い前髪の隙間から、悪い虫でも見るような冷め切った視線が返って来た。居所など言うわけがない、というふうに小さくため息をつき、
「久世君には近づかないように釘差しておくよ。種つけられたら俺も嫌だし」
「どういう意味!?」
 こいつは一体こちらを何だと思っているのだ。念のために思い返すが、茉莉には出会ってこの方指一本も触れてない。神に誓ってだ。確かに昨日は下心が出かかったが未遂だったし、人聞き悪いことを公衆の場で言わないでほしい。
 風評被害に遭いつつある颯介を尻目に、国枝が言った。
「しかしお前も早く来たな。今年はやる気満々か?」
「別に……姉さんが翡翠(ひすい)の調整したいって言うから、合わせて来ただけです」
 翡翠とは、立葵が乗るFMの名だ。翔が整備しているスパローより一回り大きいほどで、深く青味の強いエメラルド色をしている。こまめに手入れされているために一見そうは見えないが、実際は相当に古い機体であるらしい。茉莉が企業秘密だと言って譲らないため、近くで見せて貰ったことは無いのだが。
「それはそうと立葵なぁ、もう一年こっちで頑張って、来年にはちゃんと本戦行けよ?」
「国枝さん、えらい贔屓だねぇ」
「何言ってんだ颯介。俺がわざわざ言わなくても狙ってんだろ、お前らは」
「そうですけどぉ。たっきーもさ、行かないんなら俺らが先行っちゃうよ」
「お、出たな宣戦布告」
 いつもの調子で煽ってみたものの、立葵はどこ吹く風というようだった。
「どうぞ。ご自由に」
「おま……相変わらずだなぁ」
 国枝も言葉を失くす。職員の前でこんなことが言えるのは、黎二を含めたってこいつだけだ。
「たっきーさぁ、操縦上手いんだし、もうちょっと本気出してやろうよ。茉莉ちゃんはあんなに頑張ってんのに。張合い無いなぁ」
「俺、勝ち負けとか本戦とか興味無いから。張合いを求められても困る。当たったら、試合はするけど」
「はぁ……あのさぁたっきー。そんなだから、黎二にも大したことないって言われるんだよ」
 ああ――しまった。余計なことを言ったかもしれない。立葵は乏しかった表情を更に無にして、間合いを取るようにしてすっと一歩下がった。