Sparrow!!--#6:Burst(08)

「橘川君はさぁ、何にもわかってないよね。まぁ一年目だし、最年少だからってちやほやされてるから仕方がないけど」
 自分も少しは高くなったつもりだったが、並んでみればまだ陸央の方が少し長身だ。文字通り軽く見下ろされながら、翔は唇を噛む。ちやほやという程ではないにしろ、祖父の功績や自分の年齢、雛が初心者であることから大目に見て貰っている部分も確かにあるのだ。
 けれど、操縦士であるこいつに「わかってない」などと言われる筋合いは全く無い。
「お前こそ何がわかるんだよ。整備士でもないのに」
「そうだけど。じゃあさ……橘川君は、宝生さんのこと、わかる?」
「――そんな……」
 質問の意図がわからず、翔は答えに窮した。
「僕のことはわからなくて良いけど、組んでる操縦士の事がわからない、なんてことはないよね?」
 陸央はにたりと口角を上げる。まるで、自分の方が雛に近いとでも言いたげに。むっとして睨み返す。雛の事ならよくわかっている。こんな奴よりも、ずっと。
「当然だ」
「だったら良いけど。――……ああ、そういえばさ、橘川君、伊礼(いれい)って知ってるかな。最近会った?」
 こいつの思考には若干付いていけない。今度は、思わぬ名前が飛び出て来た。一瞬何の事だかわからない程久しく聞いていない名前だったが、その人物のことを思い出すこと自体は容易だった。
「一昨年、身内の葬式に来てくれたくらいだ。それから会ってない」
「へぇ。じゃあ、あいつが操縦士になってるのはどうだろう」
「一応、志望してるって話はしてたけど」
 何でそこまで知っているのか。突拍子もない話題に怪訝な表情を浮かべてやると、陸央はわざとらしく右手を上げた。
「いや、別に変な話じゃなくてさ。僕、免許取る前はあいつと一緒に訓練受けてたんだけどね、選手デビュー一年遅れるんだって。……良かったね」
「何で」
「一年経験値があれば、いくら殆ど素人の宝生さんでも少しはましになるでしょ。僕が言うのもなんだけどさ、あいつ多分、相当強いよ」
 どういう意味だ。こいつは本当にいちいち癇に障る。まんまと嫌味に乗ってしまいそうになったその時、
「陸央君、スタンバイだってさ! 早く!」
 背後から声が上がった。その主は二十代後半ほどの青年で、眼鏡をかけ、整備士のジャンパーを着ている。話したことは無いが、これまでも海峰園内でちょくちょく見かけていた人物だ。
「はぁい! ――あの人、僕の整備士。また当たったら紹介するよ。じゃあね」
 そう言って、陸央は颯爽と身を翻した。ため息をつき、彼の背を見送ることもなく、翔は雛を追って走り出す。意識もしていなかった旧友の名前が出て来たのには驚いたが、来年の事など今はどうでもいい。ダグアウトと建物内部を繋ぐ階段で、雛は独り膝を抱えていた。腕に顔を埋め、グラウンドの明るさと引き換えに作られた濃い影の中にいる。急いで傍に行って肩に触れると、警戒しきった猫の様にびくんと大きく震えた。
「翔……」
「立てるか? 医務室に行く?」
「ううん、大丈夫。ちょっとふらついただけだから」
 少し顔を上げたが、日影にいてもはっきりと分かる程顔色は悪くなっている。
「無理しないように――それに、霧島は気にしなくて良い。言うことも確かに正しいけど、あいつはいつも言葉がきついし大袈裟だから、全部を真に受けたら駄目だ」
「――てたよ」
「え?」
 雛はまた視線を爪先に戻し、やっとのことで聞き取れるようなささやかな声で続けた。
「知ってたよ。…………でも、遊びでやってるんじゃない。私、そんな気持ちでFMに乗ったこと一度も無いよ。翔にも、そういう風に見えてた?」
 知ってた。陸央が言っていた、他の操縦士の事だろうか。
「いや――そんなことない。雛はずっと真剣にやってたって、俺が一番知ってる。知らない奴は放っておいたらいい」
 それでも、雛は顔を上げない。落ち込んでいると言うよりは、何かから耐えるように交互に組んだ指の付け根を震わせている。まずい。その様子はあまりに脆く、何故そのことをこちらに言わなかったんだとか、ずっと抱え込んでいたのかとか、攻めたてるような言葉は霧吹きのように一瞬で空中分散した。今にも壊れてしまいそうな雛に翔は動揺し、言うべき言葉を探して自分を追い立てる。プラスの言葉をこれ以上並べて、彼女のこの震えは止まるだろうか。落ち着こう。胸の中でそう唱えながら、長く静かに息を吐いた。
「……雛……でも」
 フォールは決して良しとされるプレイでは無い。地面に触れれば負けというルールを逆手に取った荒業で、使い方によっては反則も取られる諸刃の剣。そして、黎二が勝つために取る可能性の高い手段だ。先程の比では無い力で、アタックされることだって十分に予測できる。フロートエンジンをいっぱいまで上げた時の感覚は、消えるどころか手のひらに深く染み込んでしまっているような気がした。
 明日――同じ事になってしまった時に、自分は本当に雛を助けられるのだろうか。
「相手が黎二じゃなくても、初戦は試合自体がかなり難しくなる。だから、その……無理に勝とうって、思いつめなくてもいいんじゃないか。勿論、遊びじゃない。遊びじゃないけど、焦って事故でも起こしたら取り返しがつかなくなるかもしれない。デビュー年の初戦は元々勝率が高くない。試合の感覚だけ掴むようにして、今はまだ結果は気にしないようにするんだ」
「――翔」
 たった今夢から覚めたような目で、雛はこちらを見つめ返す。
「何で……そんなこと言うの」
 思考停止。言葉を失くした翔から視線を外し、雛は無言で立ち上がった。
「雛、」
「ごめん、やっぱり外で休んでくる。後でシューティングルームには行くから……一人にして?」
 何もわかってないよね。
 つい数分前に聞いたばかりの陸央の声が、廊下の影に溶けていく雛の背中と重なった気がした。


 その旋律は、さながらプロミネンスの様だった。
 鬼火。ピアノを辞めてからしばらく経つが、このタイトルは何となく印象に残っている。最も、雛自身はこれを弾くほどの上級者だったわけでは無いのだが。
 食事を終えたままのポーズで、ピアノに向かう兄の駿を横目に見る。アイスティーのグラスの中で氷が溶けて崩れ、水面が少し揺れた。時計は二十時過ぎを差している。FMを始めだしてから、雛の夕食時間は他の家族と大幅にずれ込むようになった。平日も、放課後には翔の家や海峰園などの施設で訓練をするのが日課になっているからだ。
 へとへとになって帰宅すれば自分の席に一人分の食事があり、決まって兄がピアノを弾いている。雛が食事を終えるまで続け、その後は少しだけ話してそれぞれの部屋に戻る――それがずっと、去年の秋からの続いていた。
 曲は佳境に時入っている。タイトルのいかつさとは反対に高音域が多く、序盤の空気は華やかとも言えた。しかし瞬く間に激しさを増し、ダイナミックに弾け、うねる。兄の細い肩越し、鍵盤の上で躍動する指の動きまでわかる。兄はこの曲が得意でないらしく、練習曲に指定されているものの滅多に弾こうとはしない。だからだろうか。今日のこの選曲は、何となく今の自分を投影させたのではないかとも思えてしまう。