Sparrow!!--#6:Burst(03)

 急に飛び出してきた自分の名前に、雛はぎょっと固まった。あの翔と親しい操縦士――周藤黎二程ではないが、背丈がある所為か威圧感が半端ない。過去の経験上迂闊な反応ができず、雛は完全に縮こまる。けれど、彼は全く予想外のことを口にした。
「九月の試運転審査の時は、無事で良かったね。俺あの時ずっと見てたけど、助かって良かった」
 そう言われ、雛は九月の出来事を思い出した。選手候補者の滑空中の体調などを事前に測るために行われる、試運転審査を受けた時の事だ。偶然故障機に乗ってしまったため、空中で異常をきたし暴れ馬の様に操作不能になった。翔が機転を利かせたおかげで無事に帰還できたが、自分でもよく無事だったと思う。けれど、あの出来事が逆に自分に火を付けたことは間違いなかった。現に、滑空中は今でも当時の記憶と感覚が蘇ってくるのだから。
「さっきの滑空も見てた。流石にあの時よりは上手くなってるけど、少し腰が引けてると思う。あの機体の形なら、もう少し腕を曲げてフォルムに沿わせた方が安定するんじゃないかな。速度が付いてくると、今の姿勢がだんだん体の負担になってくる。操作が一通りできるようになると、誰だって疎かになってくる所だけど。変な癖は、今の内に潰しておいた方が良い。滑空を始めると気持ちが高ぶって忘れがちになる。早速明日から試合だし、少し意識しておくべきかもね」
 気だるげな様子と口調のまま、彼は糸を引くように饒舌に話した。ぎくりとする。姿勢に関しては、確かに陶子にも何度か言われていたのだ。それに、滑空中は意識できていないのも当たっていた。
「――はい」
 素直に返事をした雛を一瞥し、彼も再び頷いた。
「……俺は冴羽立葵(さえば たつき)。また、試合で当たったらよろしく」
 冴羽――どこかで聞いた名前。しかし思い出す前に、彼はまたふらりとその場から去って行った。


 コットンパンツに包まれた小ぶりなヒップライン。腰と脚はすらっとしているし、無骨な整備士ジャンパーの上からでも均整の取れたスタイルがよくわかる。彼女の背後にそっと近づきながら、颯介はその細い身体を眺めた。おそらくは長いんだろう黒髪は薔薇の花の如くきっちりとまとまっていて、今すぐに指で梳いて解いてしまいたい衝動に駆られる。いや、そんなことしたら張り倒されるんだろうけど。
 今日の流れの確認と、必要データが詰まったメディアチップの配布が終了し、まさしく老若男女が揃った整備士の集合は速やかに解散した。操縦士と違って経験者が多いからか、それとも時間が押し迫っているからか。準戦スタッフ主任の国枝淳吾は諸々の説明を手っ取り早く済ませ、新人選手の収集準備に取り掛かり始めた。わらわらと持ち場に帰っていく人の流れを避けながら、颯介は彼女の名前を呼ぶ。
「茉莉(まり)ちゃん。茉莉ちゃん茉莉ちゃん」
 最初は無視を決め込まれていたが、何度目かのコールでたまりかねたようにこちらに振り返った。細い銀縁の眼鏡越し、きりっとした目元をしかめているが、その顔がまた好みなのだ。予想通りのリアクションに、颯介は口元が緩んでしまうのを必死で堪えた。何だかんだで無視を貫けないところが、彼女――冴羽茉莉の可愛い所でもある。
「久世君、何?」
「や、見つけたから呼んでみただけ」
 彼女は呆れたように息を付き、ついと歩を進めつつ視線を元に戻した。が、颯介はお構いなく続ける。
「今年もこっちなんだね。本戦行くんじゃなかったの?」
 今度は肩越しに、明らかにむくれた視線が返って来た。まずいことだったらしい――が、他に聞き様の無いことだった。冴羽が準戦を抜け、来年度には本戦に行くという噂が去年ここ海峰園に流れていたし、今日ここで彼女の姿を見るまでは当然そうだと思っていたのだから。
「おっと。別に嫌味じゃないよ。純粋に気になっただけ」
 思わず、掴まった捕虜ように手のひらを見せる。茉莉は結んでいた唇をほどき、溜息がちに反応を返す。
「私はそのつもりだったんだけど、立葵が、もう一年こっちでやりたいって」
「へぇ――」
 相槌を打ちながら、その解答は何となく腑に落ちた。彼女の弟で操縦士でもある立葵は、良くも悪くも優しすぎる奴で、まるで非好戦的な性格をしている。黎二と足して二で割れば丁度いいかもしれない程だし、価値観もプレイスタイルも正反対だ。それなのに、強い。黎二は怖くないと言い切るが、自分からすれば、数少ない気を付けるべき相手の一人なのである。選手を始めた頃からずっと勝率上位三位以内をキープしている程だというのに、あれだけ勝負に対して消極的なのも珍しい。実力と性格が一致していないタイプの良い例だ。
 立葵の眠そうな顔を思い出そうとしたが、視界の隅に入ってきた見慣れた姿に颯介は思考を一旦停止させた。前より少しだけ背が伸びた彼は、まるでこちらの存在に気付いていない。画面に穴でも開けるのかという程、データチップを入れているのだろう携帯端末を熟読している。本当、呆れるくらい真面目だ。二つ下の幼馴染兼ライバルを横目に見、颯介はそちらには敢えて声を掛けずに再度茉莉に向き直った。
「茉莉ちゃん」
「また……どうしたの」
「あれ、あいつだよ。橘川翔」
「ふぅん。貴方の幼馴染かなんかじゃないの?」
 茉莉は彼、翔の方をちらりと振り返った。やっぱり名前は耳に入っていたらしい。たった今集まっていた整備士の中でも、翔はかなりな視線を集めていたものだ。十六歳で整備士になり、そのまますぐに選手になった高校生――しかもFMの開発者である橘川進次郎の孫を、他の整備士たちが知らないはずは無いのだ。去年の星望杯からあまり関わる機会が無かったが、翔自身は自分がこれほど注目されているということを失念しているような気もする。
 自分はまだ健在だったころの進次郎に志願して学びに行っていたが、自ら組み立て整備した機体に加え、基礎以上の工学の知識が必要になる整備士試験は、普通の十代なら条件を揃えるだけでも難しい。若手整備士の多くは大学生から二十代前半で、FMとはまた別の本業の傍ら選手をする三十代以上の者もいる。本戦経験のある整備士も少なくはなく、圧倒的にベテランが多い。前に本人にも指摘したことだが、経験の差がものを言う整備士の仕事の上で、トレーニング経験も全くない素人同然の操縦士と組んで、まともに勝率が稼げるとは思えないのだ。
 それでも、翔は大真面目に頂点を目指すと言う。
「うーん、幼馴染っていうか、弟分っていうか、子分っていうか、俺が育てたっていうか」
「何それ」
 こちらのおどけた言い方に、茉莉は不意に微笑した。おおラッキー。普段から気の強いタイプの彼女が、こんな表情をするのはごく稀なことである。今のやりとりで少し機嫌が良くなったようで、彼女は珍しく自らこちらに口を開いてきた。
「整備士一年目で選手なんて、珍しいんじゃない?」
「俺も茉莉ちゃんもそうでしょ」
「そうだけど――私たちも含めてね、これからはそういうのも普通になっていくのかも。経験第一って言ってベテランばかり選手になるけど、だからかな、私たちがもっと頑張らなきゃって思うの。試合に出なきゃ経験なんて積めないもの」
 まるで二十歳に見えない落ち着きを持って、言い切る。
「でも……私が最年少って言われてた時が随分昔みたい。あの時は、年下の整備士がこんなにすぐ出て来るなんて思わなかったから」
 自分が整備士試験を受けた二年前の冬を思い出す。確かにあの時は、十八歳で整備士免許を取った茉莉が最年少だと持て囃されていたものだ。当時は高嶺の花のような存在だったし、誰よりもライバルだと認識していた。けれど、お互いに歳が近い者がいなかったからだろうか。ここで顔を合わせるうちに、じわじわと良い感じになってきているような気がする。今なら立葵もいないし、ちょっとぐらい触っても良いんじゃないだろうか。そう思って背中に手を回しかけた時、彼女は図ったかのように足を止めてこちらに向いた。
「ほら、いるわよ。貴方のところの」
 ここから真っ直ぐ先。ライダージャケットに身を包んだ黎二が、つまらなそうにスタンドの壁に凭れていた。