Sparrow!!--#6:Burst(02)

「うん。聞こえるよ」
『もう時間だ。そろそろ降下しよう』
 耳元が少し熱くなる。聞き慣れたと言っても、至近距離で聞くこと自体にはいつまで経っても慣れない。天と地の距離があるのに、隣にいる時よりも近くに感じるのだ。ただ、滑走中は必要最低限の会話しかできない上、操作に関わってくる以上聞き逃せない。たとえどんな小さなことでも、整備士の声には耳を澄ませること――とは、師である陶子からも常々言われていることだ。操縦士は決して一人では飛んでいない。整備士の声を聞くこと、それだけで勝敗どころか、事故の有無までもが関わってくるからだ。
 雛は頷く。
「わかった。降りるね」
 宙に大振りな弧を描き、音も微かに下降した。スパローの青い装甲越しに伝わるグラビティ・ドライブの息遣いも、まるで自分の身体の延長であるかのように落ち着いている。少し前まで、真っ直ぐに飛ぶことさえもできなかったのが嘘のようだ。
 人がまばらに集まりだしているグラウンドの上を通過する。スタンド席の三分の二程が観客で埋まっており、見渡すだけでも手のひらが少しだけ汗を含んだ。発進した仮設の搭乗台の前にすぅっと機体を降ろし、雛はとんと数分ぶりの大地に足を付けてヘルメットを脱ぐ。搭乗台の脇に設置されたオペレーションボードから、翔が顔を上げて言った。
「雛、数値もかなり安定してるよ」
「ほんとに?」
 ディスプレイに開かれているデータを覗き込む。そこには今滑走していた間の、心拍数や呼吸数、脳波といった雛の身体の数値がはじき出されていた。空中で急に体調を崩した時にすぐ処置ができるように、滑空中の操縦士の身体は常にリアルタイムでデータが取られているのだ。
 滑走後の体調も、乗る前と全く変わらない。空中での状態になかなか慣れず、毎回シェイカーになっていた十月の自分が懐かしかった。気温と風の関係で元から滑空が禁止になっている十二・一月や平日はバーチャルでの模擬操作と体作りをメインにし、休日は出来る限りスパローでの実滑空に費やした。最初はすぐにバテていたけれど、その気配も少しずつ無くなっている。
「本番でも大丈夫かな」
「いけると思う。軌道はブレなかったし、速度も安定してた。問題ない」
 頷く翔を見て、雛は胸を撫で下ろす。
「領空内を一周するだけだからコースは簡単だし、あとはリラックスして。明日は飛ぶ時間があんまり取れないと思うと、緊張するかもしれないけど……」
『これにて滑空練習を終了します。これからの滑空は全て禁止致します。受付がまだ済んでいない選手は、本部まで来てください。繰り返します――』
 事務的なアナウンスが会話を遮る。雛の他に飛んでいた数機のFMが、ふんわりとした軌道を描いて他の搭乗台に降り立っていった。海峰園のスタッフが、グラウンドに数台立てられた搭乗台を解体していく。雛は翔に補助されながらスパローを引き、指定の置き場まで向かった。そこには既に色とりどりのFMが集まっている。サイズや形も様々に揃っているが、どれもぴかぴかに磨かれていて、三月最後の晴れた空の色を反射させていた。
『開催前の最終確認をします。整備士は本部前に集合してください』
 アナウンスが追加されると共に、ばさりと背後から上着が掛けられる。見ると、翔が今まで羽織っていたジャンパーだった。FMマッチ準戦のロゴが入った整備士用のもので、オリーブ色の頑丈な生地は少し重い。装着は絶対義務ではないが、施設内ではパスの代わりにもなるので着ている者は多かった。
「まだ寒いし、滑空準備まで着てたらいい。行ってくる。雛は、先に待機場所に行ってて」
「えっでも、翔――」
 こちらが遠慮する前に、黒いTシャツの翔の背中は指定の場所に駆けて行った。雛は彼を見送り、そして上着に視線を落とす。確かに、快晴とはいえライダースーツだと少しだけ寒い。腕を通せば、内側に彼の体温がまだ残っていた。袖も余る。操縦士になることを決めた時から約半年が経ち、翔は少しだけ背が伸びて体格が良くなった。それが目に見える形でわかって、胸のあたりがつんと疼く。
 まだ半年。けれど、自分にも彼にも日々目にも見える程の変化が起こっている。思っているよりもずっと濃密で確固たる時間の中を、自分たちは生きているのだ。
 彼の体温が解けてしまう前にと、雛はスパローに短い別れを告げ、ダグアウト前の集合場所へと向かった。ディスプレイ横に掲げられた時計は九時半を差している。十時の開会まで、まだ落ち着ける時間はありそうだ。
 今日、三月末日。この日には毎年、FMマッチ準戦の開会セレモニーが開かれている。
 勿論、雛にとっては初めてのことだ。去年の今頃には、FMマッチに準戦なんていうものがあることさえも知らなかった。片付けられていく搭乗台に比例して増えて行く周りの人ごみは、トレーニングウェアやライダースーツ、この整備士のジャンパーを着た者ばかりだ。ここにいる全員が、これから戦うことになるかもしれない選手たちなのである。
 心を落ち着けられず、右手で太腿に触れた。その位置にあるホルダーからするりと、薄く、しかししっかりとした煌めきを持つカードを取り出す。
 雛ちゃん、おめでとう。今日から貴女も、正規の操縦士だよ――そう言って、陶子が大事に手渡してくれた。想像していたよりもずっと柔らかくしなるが、銀色のそれは紛れもなく金属だった。“No.004811 HINA HOSHO”と刻印されたその表面にはうっすらとホログラム加工が施され、専用のリーダーに通せば、証明画像を含むパーソナルデータが現れる。これは、盗難や偽装を防ぐための策だという。
 翔が持っている整備士の免許も同じ造りが成されており、彼は雛の免許を見て「お揃いだな」と小さく笑った。今月初め、まだ肌寒い昼のこと。同じ時期に入った新人選手は皆早々と免許を授かり巣立っていき、年が明け一月を過ぎても、雛だけがここに居残っていたのだ。免許を受理が完了し次第この準戦の出場権も駆け込みで申請し、今ここにいられること自体が奇跡的だった。
 カードを胸元に沿え、歩きながらも徐々に高鳴っていく心臓を抑える。空にいる時は感じなかったが、こうして地に足が付いていると、自分が緊張していることがまざまざとわかる。
 明日――翔が言っていた単語がちらつく。そうなのだ。今日の滑空など、いくら緊張したところでただの顔見せにしか過ぎない。今年の新人が領空内を一周して見せ、自分がどんな選手が他の者に知らせるプログラムに過ぎないのだから。問題はその後。協会からの催し物の次に、最後には明日から始まる公式第一回戦の相手が発表されるのだ。
 周りの声がやたらと大きく聞こえてくる中、ゆっくりと何度も深呼吸をする。不安と緊張は同じだけあるが、まだ相手も決まっていないのに取り乱すことは無いと自分に言い聞かせる。それに、翔だって落ち着いてくれているのだ。と、
「わっ!!」
 何か質量のあるものに、真正面からぶつかった。勢い余ってバウンドし、グラウンドの芝生の上にどさりと尻餅をつく。
「痛……」
「ごめん、見えなかった」
 真上からそう話しかけられ、雛は顔を上げる。しかし丁度太陽が重なっている所為で逆光になり、その人物の顔つきは見えない。
「平気です。あの、こちらこそ、すみません」
 身体にまだ衝撃は残っていたが、すぐさま立ち上がって頭を下げた。けれど彼は雛と入れ替わりにしゃがみ、足元に落ちていた銀色のカードを拾う。
「これ」
 雛が今の今まで持っていた、操縦士免許だ。
「あっ……! ありがとうございます」
「失くしたら再発行に時間掛かるし、お金も結構取られるから注意しないと」
「き、気を付けます」
 返事を受けて、彼はこっくりと頷いた。雛は免許を元のホルダーにしまいながら、改めて彼を見上げる。背が高い。けれど大きいというより、細長いといった感じだ。トレーニングウェアを着ているということは操縦士なのかもしれないが、それにしては華奢過ぎる。他の選手が周りにいるからか、その線の細さは余計に際立っていた。黒い髪は目元を覆うほどには長く、その上酷く眠そうな目つきをしている。髪の隙間から覗く黒目がちな目で、周囲をまるで他人事のように見回し、彼は溜息をつく動作で言葉を吐いた。
「――宝生雛さん?」
「は、はいっ!」