Sparrow!!--#5:Flap(21)

 小さく頷く。伝わったのかどうかはわからない。それを確認する前に、宙を半円に裂いて加速したからだ。崩れかけていた体勢が元に戻る。飛行中の鳥が大きく羽ばたくように、瑠夏は風を抱いて更に飛んだ。
 彼女の声を追うように、幾万人の歓声が鼓膜に戻ってきた。頑張れ、負けるな、飛べ、望月! その声の一つ一つが身体に溶け込んでいく。藍色の空に瞬く星までもがわかるほどに、視界がぐんとクリアになった。ハンドルを強く握る。ペダルを踏み込む。腕も胸も胴も脚も、全身全ての細胞が目を覚ます。
 そうだ、この感覚。“ここに在る”。シリウスが、風が、空が、自分の一部になっていく。
 ああ、私は飛んでいるのだ。痛みなど知らぬ間に消え失せ、疲れなど全く感じない。限界などない。ただただ飛ぶことだけが好きで、誰よりも強くなりたいと願った昔の自分が、痛みや衰えに怯える今の自分を越えて来た。そしてその自分は、客席の少女と同じ青空のように澄んだ瞳を持っている。
 銀色の機体が視界に入った。那智。一番強い操縦士。誰よりも強くなりたい自分にとって、彼の存在は憎むべき対象であり、恐れる存在であり、憧れだった。しかし、今日は以前のように翻弄されるだけの自分ではない。
 ヘルメットの中で瑠夏は吠えた。聞こえたのだろうか、アイシールド越しに彼が視線を寄越したのが分かる。赤い光が閃いた。反射的に躱し、こちらも同じように撃ち返す。光を交わし合いながら高く飛び、今度は観客の声が遠のいた。再び訪れた緊張と静寂。振り子のように距離を取りながら、星々の瞬く夜空の下で再び目を合わせる。右ハンドルを握り直し――目を凝らし――ライトの振り撒く光の中、彼と瑠夏は全く同時に、赤い閃光を撃ち放つ。
 そして――
 この永遠に続くとさえ感じた時間を切り裂いて、試合終了のサイレンがスタジアムの空を揺らせて鳴り響く。
『試合終了!! 二十五対二十三!! 何という試合でしょう、一回戦ながら大量得点の名勝負!! 望月選手、不調からよくここまで持ち応えた!! しかし凌ぎを削り勝ったのはやはりこの人だったぁぁぁぁ!! 勝者、那智清天ぁぁぁぁ!!!!』
 アナウンサーの声に応えるように、爆発的な歓声が起こった。ファルコンはすうっと軌道を変え、その煌めく輪を辿るように螺旋を描いて降下していった。その彼の軌跡を見送りながら、瑠夏はフロートの働きのみでまっすぐに地上に降り立つ。
 終わった。
 終わってしまった。この二年ずっと待ち侘びていた十分間が、今敗北という形で幕を閉じたのだ。脱力しきった体を機体から降ろし、地に膝をついたまま動けずにいると、無言で傍までやってきた暁が肩を貸してきた。駆け寄ってきた職員達がシリウスやオペレーションボードを撤収し、瑠夏があそこにいた名残が早々と片付けられていく。
「ごめん、暁、私、」
「謝らないで。よく頑張った。……凄い試合だったよ」
 彼は前を向いたまま、くしゃりと軽くこちらの髪を撫でた。その手には熱が戻っている。瑠夏の肩をしっかりと支え、彼は横顔のままで微笑んだ。
「来年も来よう。ここに。そして、一番になるんだ」
 大粒の涙が溢れた。誰にも見られないように手で隠しながら、けれども今度は俯かない。同じように真っ直ぐ前を向きながら、瑠夏は繰り返し頷いた。
 この悔しさは、必ずこの場所に返しに来る。
 勝者を湛える盛大な拍手。しかしその中には、自分を呼ぶ声も多く混ざっている。遠のいていく意識の中で、瑠夏ははっきりとそれを胸に刻み付けた。


 銀色の光を散りばめながら、那智の乗るファルコンが宙を舞っている。
 翔は呆然とそれを目で追う。彼と望月瑠夏の試合は、一回戦と思えないほどの濃厚なものだった。息をしていた記憶さえない。那智の試合でこんなに大量得点が出たのも、翔が今まで観戦した限りでは初めてである。
 未だ興奮の波が引かないスタンドの中で雛を盗み見ると、彼女もまた呆然とグラウンドの様子を眺めていた。
「凄い……」
 瞳が潤んでいる。シリウスがこちらに突っ込みかけた時、翔は避難しようと彼女の手を掴んだ。だがその時――雛は即座に立ち上がり、ありったけの大声で瑠夏にエールを送った。
 ぞっと血の気が引いた感覚がまだ残っている。しかし瑠夏は間一髪で体勢を変え、また空に戻っていった。そしてこちらの見間違えでなければ、彼女は雛に向かって確かに頷いていた。
 雨の中家に来た時といい、つい先程黎二と会った時といい、雛の行動にはいつも驚かされる。試合の余韻と安堵で整理のつかない胸を落ち着かせようと息をついた時、雛がぽつりと口を開いた。
「――翔」
「うん?」
「あのね、翔。私、決めたの」
 そう言って、雛は照れくさそうに少しだけ下を向いた。
「私、もう弱音とか吐かない。翔が夢を叶えられるように、強くなる。それに、望月さんみたいになりたい。あんな風に飛べるように、いっぱい……いっぱい、頑張るよ」
 彼女の綺麗な手のひらが、膝の上でぎゅっと握り締められる。
「俺も――」
 俺が、雛をチャンピオンにする。
 あの時――丁度一週間前、海峰園の医務室で、照れくさくて声に出来なかった言葉の続きだ。けれど、自分が、という考えは必要ないのかもしれない。雛は自分が思うよりも遥かに早いスピードで変化していっている。先日から少しずつ感じていたのだ。リードしているつもりだったのに、彼女はいつの間にか追いつき、同じ歩幅で進んでいたのだから。
「雛だけじゃない。俺もだ。俺も頑張る。この場所に、選手として出よう――絶対に」
 観客の様子が凪ぐのを待ち、アナウンサーが声高に次の試合を注げた。グラウンドを見れば、整備士と共にダグアウトに消えていく瑠夏の背中がある。
 彼女の背中には、負けても尚折れることのない翼が見えるようだった。

(#5:Flap--FIN.)