Sparrow!!--#5:Flap(20)

 茹で上がったばかりのように赤面し、暁はぱくぱくと口を開閉させた。本当に大仰な奴だな。瑠夏はまた笑いが込み上げそうになるのを抑え、ただ一人の相棒の胸をどんと押す。
「ほら、行こう」
 自然と笑みが零れた。いつもならこんなことは絶対にしないが、今日は特別だ。
「う、うん」
『さぁ、いよいよ一回戦の最終試合です! が、その前にお知らせがあります。体調不良のため選手入場を欠席していた望月瑠夏選手ですが、出場を続行されるそうです!!』
 暁の返事に被さって、アナウンサーの声がスタンド内にこだまする。客席からは歓声と拍手が巻き起こり、それを聞きながら、瑠夏は愛機の艶やかな黒い装甲をゆっくりと撫でた。シリウスも歓喜しているのだろう。グリップを握ってスタンドを蹴り外すと、手のひらに静かな熱と震えが伝わってきた。
 前を見る。明るく照らされたグラウンド。敷き詰められたセットと人工芝の向こうで、倒すべき王者・那智清天が、微かに笑みを浮かべてこちらを見つめている。
 ぎゅっと見返す。舞台は整った――さあ、始めよう。戦いを。


「やった、翔、望月さん出るよ!」
 その名前が呼ばれたと同時に、雛が嬉しげにこちらを向いた。ディスプレイには『RUKA MOCHIZUKI』の文字が浮かび上がり、それに合わせて観客が拍手を送る。
「大丈夫だったんだな」
「そうみたいだね。良かった……!」
『それでは参りましょう! カウントダウン! 5、4、3、2、1――』
 アナウンサーの掛け声に、観客全員が声を揃える。最初はばらついていたが、今日で八回戦ともなれば流石に息も合ってきていた。本来ならあまり声を出す性分ではない翔も、隣の雛が楽しそうに声を出しているのに合わせて、少し控えめにこれに倣う。
『0!!』
 これまでの選手と同様に、破裂音。けれど彼らを視界に留められた者は、この会場にも殆んどいないだろう。誰もがスタジアムの上空をしばらく見回し、そこでやっと彼らの軌道を把握する。鳥のようなシルエットの黒い機体と、華奢な流線型の銀色の機体――シリウスとファルコンが、充分な間合いを持って高速で旋回していた。
 今まで試合した機体のように絡み合うことはせず、二機は適度な距離を持って各々に飛んでいる。しかし、牽制し合っている風にも見えない。この試合を時間一杯楽しもうとでも言うような、ある種余裕を感じる滑空の仕方だ。
 双方スピードに緩急を付けながら、近付いたと思ったら離れ、離れたと思ったらすっと近付く。それが短い間に数回繰り返され、観客が焦れかけたその時、先に動いたのは瑠夏の方だった。
 軌道を那智に並行させたと思いきや、突如機体を横方向に回転させて減速する。その一瞬を突き、至近距離でのレールを一発。一拍遅れて観客が沸いた。ディスプレイに書かれた瑠夏の名前の下に、『4』と点灯される。だが次の瞬間には那智が突如高度を上げ、瑠夏を翻弄するように軌道を揺らせた。
 まるで挑発だ。機尾は得点が高い部分だから、大体の選手は真後ろを取られるのを嫌う。けれど彼は完全に避けることも出来たはずなのに、敢えてそれをしなかった。まるでハンデを与えているかのように、だ。全員が一流であるこの舞台において、あまりにも相手を見下ろしたプレーである。
 ただ、瑠夏はあくまでも落ち着いていた。彼を無闇に追ったりせず、軌道を反対方向に修正して迎え撃つ。
 旋回――
 加速――
 再び接近――今度は那智が、レールを二発間髪入れずに放った。どちらも側面にヒット。彼にも四点が追加される。が、すぐに瑠夏も返した。一秒単位で加速と減速を繰り返し、高くまで飛んだかと思えば、今度はギリギリの低位まで下降する。取り合いはするものの僅かな点差をキープしながら、彼らの動きは見る間にも洗練されていった。
 観客は勿論アナウンサーまでもがいつの間にか静まり返っていた。今までの試合のように、一度のヒットで一喜一憂することはない。一見余裕を持った試合に見えるが、空気自体が放電しているような強い緊張感に満ちている。永遠に続きそうな十分間。しかしそれを、全員が固唾を飲んで見守る最中で――その均衡が、突然何の予兆もなく崩れた。
「あッ……」
 ずっと瑠夏を目で追っていた雛が声を上げる。シリウスの重心が傾き、高度が下がる程の減速が起こったのだ。


 体の下で、シリウスが唸りを上げる。風の感触。闇に溶ける光の帯。吹き飛ばんばかりの速度の中にいて、痛覚だけがやけに鮮明に感じ取れた。
 呼吸。骨の軋む音。肺の震え。薬が効いているはずなのに、それは突然襲ってきた。荒くなった息をヘルメットの中で噛み殺すが、一度崩れた体勢はすぐには元に戻せない。視界のずっと奥に、一旦様子を見るように距離を取るファルコンの細いボディが見える。
『瑠夏! どうしたの!?』
 スピーカー越しに暁の声が聞こえた。グラウンドを見る余裕などないが、瑠夏は焦る彼に自分でも不思議なほど平静に答えた。
「――大丈夫」
『そんなわけない!』
 彼は叫んだが、それでも瑠夏はわかっている。これは先ほどの転落からのものではなく、身体が思い出した記憶の中の痛みだ。体調的には何も問題は無い。本当だ。ぐっと唾を飲み込み、瑠夏は短く返す。
「平気」
『けど、』
 暁が何か言う暇もなく、那智がこちらに突っ込んできた。銀色がライトの下で閃く。ギリギリで躱すも、また側面にレールを当てられた。こちらも打ち返すが、手元が狂って全く別の場所に放ってしまう。
 すぐさま再び距離を取った。対角線上の端から端へと飛び去る。しかし一度視界から彼を離せば、次はどこを狙われるかわからない。その上痛みで両腕が震え、フロートエンジンが未だに安定せずにいる。激しくなった呼吸がヘルメットの内部を叩くように響いた。
 怖い――初めてはっきりとそう思った。奥歯ががちがちと鳴りかけ、慌ててぎゅっと喰いしばる。暁が何か叫んだが、聞き取れない。加速させるも気付けば高度が落ち、目の前にどっとスタンドが迫ってきた。絶望的なデジャブに全身の血の気が引き、五感が一瞬で真っ白に消え去る。
 ああ、
 駄目だ、
 私は、また、
――……さん! 望月さん!!
 ホワイトアウトした聴覚の中、打ち付ける風とヘルメットを越え、聞こえるはずの無い声だけ甲高く響いた。
――望月さん、頑張って!!!!
 はっと我に返り、目を凝らす。スタンドの上部席で、一人の少女が立ち上がって叫んでいた。逃げの体制に移る他の観客を尻目に、色素の薄いショートの髪を揺らせ、華奢な体を振り絞るように声を出して。彼女はこちらが見ているのに気が付いたのか――そこを通り過ぎるコンマ以下の時間の中――それはスローモーションのように――目が――彼女と――目が、合った。
 脱力しかけていた手のひらに渾身の力を加え、瑠夏は機頭を空に向けた。彼女には見覚えがある。あれは――そうだ、つい一週間前に見た。自分に似ていると言われて見ていた、新人の操縦士。立場は真逆だが、あの時も、確かこうして視線が合った。