Sparrow!!--#5:Flap(19)

「望月さん、どうしたんだろう」
 隣で雛が少し不安そうに呟いた。グラウンドではもうすぐ始まる初戦の準備が進められている。整備士と協会職員達がオペレーションボードや搭乗台の調節をし、その間を繋ぐようにBGMの音量が一段と上げられた。
「……機体の調子の所為かもしれない」
 雛を安心させようと、翔はそう応えた。これは現実的に可能性のあることで、舞台裏では色んなトラブルが付き物だと聞く。正式なアナウンスがあるまでは、棄権と断定するのは早計だ――とその時、グラウンドに少しだけ慌ただしさが走った。アナウンサーはトークを切って職員と軽く話し合い、軽く頷いて観客に再度向き直る。
『ええと、皆にお知らせがあります。今の選手入場に欠席だった望月瑠夏選手は、体調不良により出退場を協議中とのこと。出場予定の八試合目開始までには、結果をお伝えいたします』
「体調不良……?」
 翔がアナウンスを受けて呟くと同時に、会場全体が一斉にざわついた。そんな中で、後ろに座る女子大生三人組の話し声が耳に入る。
「ねぇ、これ見て。この記事じゃん?」
「うわぁ。望月選手、やばいんじゃないの」
「三時頃って、結構前だよね。大丈夫なのかな」
 ちらりと振り返ると、一つの携帯端末を三方から覗きこんでいる。そうか。翔も端末を取り出してネットワークを開けた。灯台下暗しというべきか。現地観戦者は忘れがちだが、試合を見られないファンのために、各メディアによる選手情報はリアルタイムで発信されているのだ。タップをしてFMマッチ戦況の欄を開ける。真っ先に、太字でタイトルされた記事が目に入った。
『望月瑠夏、転落。試合の意向は協議中』
「これか」
「そんな……」
 雛もディスプレイを覗きこみ、息を飲んだ。
 開場前、移動中に体調不良に陥り階段から転落し、今もなお医務室で治療中だという。翔はトーナメント表と記事を交互に見返した。一試合は十分。インターバルは五分間。瑠夏が出場する一回戦最終試合――第八回戦まで、まだ一時間以上はある。その間、ギリギリまで回復を待つつもりなのだろう。
 体調不良のままで試合を行うのは、当然の如く危険行為だ。それに加え、彼女には以前の事故の傷もある。丁度二年前の今日、機体ごとスタンドに激突した光景は翔の記憶にもまだ新しい。もしもあれと同じような事故を繰り返してしまったらと思うと、いくら初心者である翔でもぞっとしてしまう。
「望月さん……」
 雛が祈るような声で呟く。第一回戦の開始を告げるブザーが、緊張に張りつめた夕闇の空を引き裂くように鳴り響いた。
 瞬時に顔を上げる。同時にドッという火柱のような風がグラウンドの両端で弾けた。強いライトの光の中、二体のFMが蛇の如く絡み合う軌道を描き、翔の、雛の、観客の不安を一抹も残さずに拭い去っていく。
 始まった――選手にとっての最後の夜が、星望杯が始まったのだ。
 見上げれば、空はもう戦いの場へと変貌していた。


 試合中のFMが空を切る音と、それに合わせて湧き上がる観客の声が響く。
 堅いグローブに包まれた手のひらを、瑠夏は二度三度と固く握り締めた。目覚めたのはほんの二十分ほど前だが、それまでにあった痛みや軋みが嘘だったように体が軽くなっている。
 ライダースーツを着直して少しだけ運動し、プラットフォームに到着した時には試合は七つ目で、瑠夏が出る一回戦最終試合の丁度ひとつ前まで駒を進めていた。日は完全に沈んでおり、スタジアムを取り囲むように設置されたライトが煌々とスタジアムの中と上空を照らしている。どちらかがレールを当てたのか、どっと大きな拍手が起こった。
 空気がびりびりと振動した。まるで一つの巨大な生き物のように、このスタジアム自体が激しく慄いている。何千何万の人間を飲み込み、それでも足りずに獲物を求めている獣――私と同じだ。私も早く空に繰り出して、大舞台での狩りを楽しみたい。トーナメントの一回戦だとは思えないほどのアドレナリンの量に頭は冴え、体中を巡る血液が唸りを上げている。一体化したこの空気を肌伝いに感じながら、瑠夏は自分の口角が不意に上がっていくのを感じた。
 全く現金なものだ。先ほどはあれだけ邪険に思っていた観客の気配に、今では少なからず鼓舞されている自分がいる。これが身体的な状態によるものなのか、試合ができるという精神的なものなのか。もしくはその両方なのかは、まだ判断できずにいるのだが。
 暁が口移しでくれた薬。あれは、医師が持っている中で一番強力な痛み止めであったらしい。服用すれば強烈な眠気に襲われるが、目覚めからしばらくは身体的なストレスから解放される。あまりにも強く効きすぎるため、今までも数える程しか服用したことが無い薬だ。
 効果が切れた後の反動も大きく、後の負担のことを考えれば少しだけ怖くもある。しかし、この舞台に立てないことに比べれば、一時の痛みなど瑠夏にとっては取るに足らないものだった。
――瑠夏、よく聞いて。最終試合だから、今から一時間半は休めるはずだよ。時間が近くなったら起こす。必ず起こすから、今は眠るんだ。棄権はさせない。マネージャーにもそう伝える。だから俺も一緒に、那智に挑む。
 意識が遠のいていく一歩手前。ノイズのようにぶつ切りになった聴覚の中で暁が言った言葉が、未だに鼓膜に貼りついている。開会の選手入場パフォーマンスは欠場になってしまったが、棄権するかどうかの判断は瑠夏が目を覚ますまで引き延ばされていた。
 桂の顔は見ていない。見せにも来ないし、こちらからも顔を見せようとも思わない。そんなものだろう。自分ほど我儘な操縦士もいないとは思うが、同時に瑠夏は立場もわきまえている。二年もブランクがある上に技術的に劣化し、もう二十代半ばを超える選手に、将来性と集客を重視する彼が目をかけるはずがないのだ。
 ただ担当職員に聞いた話だが、暁が桂の元へ直々に掛け合いに行ったのだという。瑠夏は思わず苦笑した。あれだけ周りには彼のことが迷惑だと触れ回っていたのに、結局自分は彼無しでは何もできないのかもしれない。
「瑠夏、大丈夫? 気分悪くない?」
 そんなことを思った丁度その時、傍でシリウスの整備に当たっていた暁が図ったように顔を上げた。瑠夏が目覚めた時からずっと、こちらの顔色を伺って不安げな表情をしている。しかし、それほどの心配は無用だ。むしろFMを始めてからこれまでを振り返っても、過去最高に高揚しているのだから。
「私は大丈夫。それより、シリウスはどうなの。私の心配より、あんたはそっちでしょ」
「それは問題ない……と、思う。数値は全部正常だし、GDの回りも好調だ。後は――うん、瑠夏次第だよ」
 試合の終わりを告げるブザーの音が鳴り響き、会場中が拍手に沸いた。
『試合終了!! 勝負あり!! 七対六の接点を下したのは――』
「暁」
「な、何?」
 弾かれたように暁がこちらを向く。瑠夏から話しかけることが殆ど無いためか、面白いほどに一瞬で顔中に動揺の色が浮かんだ。先ほどはあんなに厳しくこちらを制していたのに、まるで別人のようになっているのが可笑しい。
 驚く彼の肩に額を当て、その背にそっと腕を回した。機械油の臭いが鼻を掠める。呆れるくらい熱苦しい性格をしているくせに、体温は驚くほどに低かった。緊張しているのか――否、していない方がおかしい。彼だって選手の一人なのだから。それとも、先ほどのくちづけでこちらの不安が全て移ってしまったのだろうか。
「有難う、棄権しないでくれて。試合ができて、本当に嬉しい」
「るっ……」