Sparrow!!--#5:Flap(18)

 暁はしばらく黙ってこちらを見つめていたが、やがてふっと力を抜いた。瑠夏の身体をひょいと抱き上げ、ゆっくりとベッドの上に戻す。
「すみません先生、あれをください。一番強力なものを。水も――」
「あ、ああ」
 様子を伺っていた医師が寄ってきて、視界の隅で彼に何かを手渡した。
「ごめん。ちょっと、嫌かもしれないけど」
 そう言って、暁は白い錠剤とボトルのミネラルウォーターを口に含んだ。何をされるのかの判別もつかないままに、その唇がこちらのそれに押し付けられる。ほんのりと熱を持った舌先がこちらの口を優しく開かせ、そこから温い水と錠剤がするりと這入ってきた。
「ん……」
 彼の感触が離れる。苦味。それはくちづけの余韻ではなく、どこまでも人工的な薬の味だ。喉がぎこちなく動いて水ごとそれを飲み込み、瑠夏は瞳に溜まった涙越しに彼のシルエットを眺めた。
「瑠夏、よく聞いて。――……だから、……だよ」
 既にぶつ切りになっている意識の中、暁の声はざらついたノイズのように歪んでいる。


 潮の匂いを纏った風が、すっかり夜のものになった空気をふわりと運んできた。
 昼間の鮮やかな青はいつの間にか抜け落ち、陽はすでにドームの枠の下に沈んでしまった。客席を囲うように並ぶ照明は、これから始まることにそわそわと浮き足立つ万単位の人々を見守っている。外の祭りをそのまま持ってきたような賑わいぶりだ。周りのざわめきに掻き消されるように少しだけこちらに顔を寄せ、隣に座る雛がこちらに囁いた。
「良い席だね」
 チケットに書かれた指定の席に到達し、腰を落ち着けたのは十分ほど前のこと。人の波を越えてやっとの思いで来てみれば、指定席の区画とされている部分でもかなり上の方にある特等席だった。ドーム内部全体が見渡せるこんな良席、普段なら母のコネのようで疎ましく思うところだが、雛が目を輝かせているので今日の所は良しとしよう。対岸の自由席区間は既に人がぎっしりと埋まっている。試合開始前の選手入場まで、ディスプレイに映された時計はあと十分を切っていた。
 選手の名前が刺繍された半被姿の集団がぞろぞろと階段を上がってくる。斜め前に座った中年男性が大声で飲料の行商を呼び、翔の傍を通りがかった売り子の女性が明るく返事をした。後ろの女子大生三人組はどの選手がかっこいいかという話題で盛り上がり、小学生くらいの少年達が下の通路で追いかけっこをしている。時刻の上では夕飯時だが、食事をしている者は周りには見受けられない。試合の状況によっては避難しなければならない場合もあるため、FMマッチの観戦客は服装も荷物もシンプルだ。賑やかしに流されているハードロックの音に負けない声で、雛が周りを楽しそうに見渡しながら言った。
「でも、すごいね」
「何が?」
「何ていうか――みんなが。みんな楽しそうで、私もドキドキしてきちゃった。夏大会の時はこんな風に思わなかったのに」
「そっか。あの時、調子悪そうだったからな」
「うん。でも、今日は大丈夫だよ。むしろ元気」
 それは表情を見ただけでもわかる。先ほど黎二と出会った時とは打って変わって、ドームに入ってからの雛はずっと楽しそうなのだ。
「あっ。翔、人が出て来たよ」
 彼女に釣られて下を見ると、試合用に整備されたグラウンドの上に数人のスタッフが出て来ていた。その中の派手なシャツを着た一人が、一段と大きくなるBGMに合わせ大きく声を張り上げる。
『――さぁ!! 今年もいよいよやってきました!! 秋の風物詩、夢の舞台、王者決定戦!! FMマッチ二〇七七、グランプリ・ファイナルゥーーーー!!!!! 皆さんどうですかぁぁ!? 盛り上がってますか〜〜〜〜〜〜!!??』
 夏と同じ男性のアナウンサーだ。舌を巻いた軽快な彼の煽りに、会場中の客が地鳴りのような歓声と拍手を上げて応える。雛も隣で手を叩いた。彼は独特な口調のままトークを繰り広げ、開場の興奮が最高潮になったタイミングで天を指差した。
『ではではお待ちかね!! 春から今日までの熾烈な戦いをくぐり抜けてきた猛者達、出場選手を紹介しよう!! まずは東の一大大会・桜花リーグの夏覇者、その的確なトリガー裁きと華やかなルックスで人気絶好調の――』
 選手入場の方式は夏大会と全く同じだ。アナウンサーによる紹介をバックに、選手がFMに乗って滑空し観客を沸かせる。選手の名が高らか呼ばれると同時に再び大きな歓声が上がり、片方の搭乗台から深いワインレッドのFMがミサイルのように空へと解き放たれた。
 爆発的な熱狂の波。狂おしいほどの興奮の渦の中で、隣ではしゃぐ雛の声さえも掻き消させそうだ。選手入場は目まぐるしく進行し、自慢のFMに乗った選手達が代わる代わる登場しては階上を沸かせる。
 試合程のパフォーマンスを見せなくとも、各リーグを制覇してきた選手たちの滑空はそれぞれハイレベルなものばかりだった。まだ試合は始まってもいないというのに、早くもテープや紙吹雪が舞う。選手紹介は途切れることなく続いているものの既に出た選手を数える暇も無く、指折り確認してやっと十四人目を数えたところで、アナウンサーは一段と大きな声を張り上げた。
『最後は勿論この人だ! 一昨年、去年と二連覇を果たした現王者、今年は彼にかなう相手が出て来るのか!? それとも前代未聞の三連覇が果たされるのか!!?? この男に注目せずして誰に注目する!! チャンピオン・那智清天ぁぁぁぁーーーー!!!!!!!』
 今日最大の歓声が巻き起こる。周りの迫力に気おくれしている間に、彼の白銀色の機体は目にも留まらぬ速さで頭上を通過していく。翔は視点を近くから遠くに移し、待ち伏せる形で彼の動きを捉える。
 やはり、ホログラムよりも実物の方がずっとわかりやすい。ライトを受けて銀色に光るファルコンは、今までに見た他の機体と比べればかなり華奢な印象をこちらに与えた。そして、まるで機体と一体化したかのように操縦する那智本人は、おそらく本来の技術の十分の一も使ってないのだろう。他の選手ほどの派手な演出は見せず、彼らしい緩急をつけたシンプルな滑空に徹している。それでも観客の声をまるで彗星の尾のように引き連れながら、およそ一分のデモンストレーションを終わらせた。
『ではこれより早速試合に移っていきましょう!! ここからは真剣勝負だ、心を切り替えて――』
 那智がバックヤードに履けていくと同時に、アナウンサーがそう言って白熱する観客をクールダウンさせた。それを合図に、会場の雰囲気は少しずつ緊張感に包まれていく。けれど、翔はそこで決定的に足りないものに気が付いた。
「――あれ?」
「翔、私の勘違いかな……」
 当然ながら、雛も同じだったのだろう。視線はグランドに注いだまま、少し怪訝そうに顔をしかめた。
「いや、そうじゃないと思う。確かにいない」
「ねぇ、だって……」
 そう、いないのだ。星馬リーグの夏を制した、誰よりもよく知るあの選手が。
「なんだぁ? 望月瑠夏がいねぇぞ」
 こちらが声にする前に、前列の男性がその名前を出した。翔も思わず頷いて彼に賛同する。
「ですよね」
「お? ああ。今出なかったもんなぁ。どういうことだこれ。天馬リーグの夏覇者だぞ?」
 彼女がいないことに気が付いたのか、周りの観客も俄かにざわつき始めた。男性が言う通り、聖地直下である星馬リーグの夏を制した者がここにいないなど、前代未聞の事なのである。
「何で望月選手いないの? 楽しみだったのに」
「どうしたんだろ。何か告知あった?」
「もしかしてさ……棄権? ドタキャンとか」
「えええ、さすがにそれは」
「でも、ほらあれ見て。一回戦、那智と当たるよ?」
 周りの声を受けて、翔も真正面のディスプレイを見た。そこには既にトーナメントの図が掲げられ、一回戦の選手の組み合わせがわかるようになっている。瑠夏の名前は下から二番目。最終試合で、相手となるその下の名前は――この開場の誰もが知る名・那智清天という文字がくっきりと浮かび上がっていた。