Sparrow!!--#5:Flap(17)

 瞼をうっすら開けると、鋭いくらいの蛍光灯の光が瑠夏の目を射た。
 体中が重い。動こうとした途端に中に激痛が走り、反射的に清潔なシーツの中で身を丸めた。自分の心臓の音が、耳の奥で低く響く。頭が正常に働かない。状況が呑み込めずに瞬きを繰り返していると、ずっと傍にいたらしい暁が慌てた様子で覗き込んできた。
「瑠夏、平気?」
「――試合は?」
 彼の質問を無視して問いかける。が、暁はふっと目を伏せただけだった。彼の後ろに待機していた協会付きの医師も、動きを止めたままこちらの様子を伺っている。控え室だと思ったが、どうやらここは医務室であるようだ。白いだけの殺風景な部屋の中で、照明だけが煩いほどに眩しい。厚い生地のカーテンは閉め切られているが、外にいる大勢の観衆の声が遠く微かに耳に届く。
 瑠夏は胡乱な記憶を必死で廻らせた。施設内を彷徨っているうちに発作が起き、階段で足を踏み外したことまでは覚えている。あの時、傍にいたのが暁だけだったことが唯一の救いだ。後に自分をここまで運んだのも彼であろうが、そのことに気を回す余裕は今の瑠夏には無い。
 こんな場所でじっとしていられるものか――早く試合に行かなければ。身体に巻き付いたシーツを勢いよくひっぺがし、急いで立ち上がろうとする。と、
「動かないで」
 暁に肩を掴まれた。こいつはこんなに強かったのかと思う程の力で引き戻され、再びベッドに押し込まれる。
「じっとしてるんだ。今無理したらまずい」
「嫌だ!!」
「嫌だじゃない!! ……試合はまだ始まってもいない。開場したばかりだよ。だからじっとして。頼むから」
 駄々をこねる幼児のように振り上げられた瑠夏の腕を掴み、暁は至って冷静な口調で続けた。
「瑠夏、聞いて。まだ協会には提示していないけど、さっき桂(かつら)マネージャーから進言があった」
 桂。瑠夏が所属する星馬重工の子会社にあたる選手団体・スターヘイズの責任者だ。ポストの割に年齢が若く、掴みどころのない男。彼のあまり信用のおけない、いけ好かない狐顔を思い浮かべる。
 本戦に出るためには、どこかしらの選手団体か企業に籍を置くのが最低限の規則となっている。そのためにしぶしぶ所属しているが、競技も知らない素人である彼の支配下になったとは一切思っていない。これまで桂に何かを進言されてもそれに従ったことは一度も無く、暁自身も彼のことを苦手にしていたはずだ。
 けれど暁は、こちらが考えもしていなかった単語を毅然と吐いた。
「棄権しよう」
 正常になりかけていた思考が停止する。その言葉の意味がすぐに理解できず、瑠夏はただ呆然と相方を見返した。
「……何言ってるの。そんなことはしない」
「自分でもわかるだろ? そんな状態では試合に出られない。出ても危険だ。また事故するのが目に見えてる」
「事故なんてしない!!」
 大声を張り上げた。反動で全身が軋み、その痛みに耐えきれず瑠夏はまた身体を折る。息を飲んで嗚咽を堪え、震える腕で上半身を起こして暁を睨みつけた。彼が何故その選択を取るのかわからない。自分は己を鍛え、彼はシリウスを改良し――出会ってから今までずっと、この日のためだけにやってきたはずなのに。
「……ここまで来るのにどれだけ苦しかったか、あんたにもわかるはず。あんただって同じ思いだったでしょう。何で今そんなことを言うの。私はチャンピオンになるんだ。勝つんだ、あいつに。だから」
「駄目だ。今は瑠夏の身体の方が大事なんだから……」
 頑として首を横に振り、暁はこちらを宥めるように両肩に手を置いた。男気なく、今にも泣き出しそうに歪められた表情からは、悲しみよりも悔しさの方が滲んでいる。それでも、瑠夏は彼の気持ちを汲まなかった。そんな顔をしながら、何故棄権などという選択をこちらに差しだすのか。自分だって本当は嫌なくせに。もしここで桂の言うとおりに棄権したとしても、この悔しさや苦しみをこれからずっと持ち続けなければならないのだぞ。
 耐えられない、と瑠夏は思う。自分はもう二十五歳で、来年も今と同じように飛べる保障などどこにもない。操縦士はいつか飛べなくなるということを、暁のような若い整備士は失念しがちだ。一度免許を取れば一生の資格になる整備士とは違う。身体的な活動期限をもつ操縦士にとっては、今この瞬間こそが全てなのに。
 昔敗北を喫した時に見た那智の背中が過ぎる。一度もレールを当てられず、弄ばれるように過ごした十分間。あの屈辱は忘れない。全ての選手の中で間違いなく一番強い人物である彼に勝てたら――否、試合ができたら、自分の身体などどうなっても良い。今の瑠夏は、それほどまでに勝負に飢えていた。檻の中で獲物を求める獣のように、空を請う鳥のように、咆哮にも似た嗄れた声を、再び無機質な天井へと上げる。
「飛ばせ!! 操縦士を飛ばすのが整備士の役目だろ!! 暁――」
 名前を呼んだ丁度その時、廊下から控えめなノック音が聞こえた。部屋の隅に控えていた医師がドアを開けると、協会の若い職員が不安げな面持ちで顔を出す。名前は忘れてしまったが、今日瑠夏の担当に割り振られた青年だ。こちらが倒れたということを聞かされていたのだろう。彼は瞬時にこの場の空気を読み、視線を泳がせながらも言葉を寄越した。
「ええと……大丈夫ですか?」
 突如として這入ってきた外野に安堵したのか嘆息したのか、暁はらしくもない溜め息をついて身を翻した。
「何?」
「あの、通達です。……一回戦目の、組み合わせが出ました」
 待ちかねていた報告に、瑠夏は即座に青年を注視する。しかし、暁がそれを阻むように立ち塞がった。部屋に入りかけていた彼の肩を掴み、まるで廊下に追いやるように移動させる。
「ああ、ごめん。言い忘れてた」
「春日井さん?」
「瑠夏は棄権だ。今から正式に表明する」
「待って!!」
 再び叫ぶ。起き上がろうとした反動で身体がよろめき、瑠夏はまとわりつくシーツごと床に落ちた。
「大丈夫!?」
 鈍い痛感が電撃の如く体中を駆け巡るが、呻きさえも上がらない。反射的に駆け寄りこちらの身を起こしかけた暁の腕を掴み、瑠夏は囁くような声で言った。
「……そんなこと、一言も言ってない」
「え?」
「棄権するなんて一言も言ってない。勝手に決めるな……誰が何と言おうと私はやる。なぁ――相手は?」
 暁に支えられながら、瑠夏は青年を見た。彼は急に顔を緊張で強張らせ、慌てて片手に持っていた中型の端末を見やる。
「一回戦、最終カードです。相手は」
 この状況の瑠夏と対戦相手の名前を見比べ、彼は一度唾を飲んでその名前を口にした。
「相手は、那智です」
「な、」
 驚嘆で声もない暁の横で、瑠夏はその名前を反芻する。勝ち続ければどこかで当たると思っていたが、まさかそれが一回戦だとは思わなかった。
「ふ、ふふ……」
「瑠夏?」
 不意に漏れた笑い声に、暁が怪訝な視線を寄越した。掴んだままの彼の手を更に強く握りしめ、瑠夏は身体の底から湧き上がる震えを抑えるかのように俯く。笑みはいつしか涙を含み、畏怖とも歓喜ともつかない激しい感情が渦巻いた。
「暁――お願い。お願いよ。私、どうなってもいい。これが最後でも良い。だから…………させて。試合を」
 自分のものとも信じられない程、か細く弱々しい声を絞り出す。
「私を、空に、連れてって」
 顔を上げる。ただ白いだけの天井に、深い空が透けて見えるような気がした。