Sparrow!!--#5:Flap(15)

 スタンドの準備が進み、会場の周りには観衆が詰めかけている。こんな状態になっても、彼――那智清天はまだここに姿を見せない。試合前の調整など不必要と言わんばかりの態度が、出場選手全員の緊張を更に煽り立てていた。
 これが王者の余裕というものか。腹のあたりに焦げ付くほど憤懣が湧き上がる。高みから見下ろされ、嘲笑われているような気がした。
 トーナメントの組み合わせは、開場直前まで通達されない。シードは無く、十六名の選手が平等な条件で始まるこの秋大会・星望杯――各選手それぞれが高い実力を誇るが、それでもチャンピオンとの試合となれば空気が変わる。何戦目で彼と当たるか。那智以外の十五名の選手は、それを逆算しながら勝負に臨むことになるだろう。那智だけが相手ではないから。ブランク持ちらしくそう言い貫いては来たが、瑠夏自身だって彼を一番強く意識していることは否定できない。
「瑠夏!!」
 背後から名を呼ばれて振り向くと、相方の整備士である暁が通路の奥から駆けて来るところだった。背は自分よりも少し高いくらいか。陶子よりも明るい赤に染められた髪と、両耳に二つずつ付いたピアス。どぎつい芥子色の作業着は、お世辞にも海央出のエリートには見えない。
「……何」
「探したよ! どこ行ってたのさ」
「どこでも良いじゃない。待機時間には戻るから、一人にしてくれる?」
「そういうわけにはいかない。体調のこともあるし、できるだけ一人でいない方が良い。控え室に戻ろう」
 言葉を遮るように、瑠夏は無言で相方をねめつける。するとこちらの眼差しに怯んでか、暁の口調は急に弱々しくなった。
「……今日、あんまり良くないんだろ? 朝から少しふらついてるし、顔も真っ青だ。俺が気付いてないって思ってたのか」
 確かに今日の体調は良く無い。昨夜は殆ど眠れなかったし、背中は少しの空気の変化でも疼いてしまう。こうやってライダースーツに身を包んでいるものの、本当はじっとしていれば叫びだしてしまいそうなほど不安定だ。しかし今ここで不調を訴えることは、二年間で膨張しきった瑠夏のプライドが許さなかった。
「――このくらい、悪い内に入らない」
「そっちはそう思うかもしれないけど、今日の試合はいつもと違う。慎重にしなきゃ駄目だ。そのくらい、瑠夏もわかるはずだよ」
 いつもは早口で捲し立てて来るのに、暁は彼らしくない諭すような口調で言った。
「わかる。私の体調は自分が一番よくわかってる。大丈夫。だから、今そんなことで騒がないでくれる? 他の選手の耳に入って困るのは私なんだから」
 そう跳ね除けると、彼は納得いかない顔をした。次に言う言葉を選んでいるふうに見える。が、そんなリアクションをされる理由はわかっていた。体調が優れないと騒いで、他の選手に隙を与えたくない――これは裏を返せば、自分の体調が良くないことを認めているようなものだから。
 その一方で、瑠夏自身も自分がこれ程まで気が立っているのを解せないでいた。体が思い通りに動かないことの不安と、事故の記憶、那智が現れないことへの苛立ち。全てがない交ぜになり、この期に及んで自分を見失いかけている。こんなことは、春と夏の大会では感じなかった。ついにここまで辿り付いたというのに、理性とは別の自分が大舞台を前に怖気づいている。
 他の選手が醸し出す緊張感に耐え切れない。例え自分の控室でも、シリウスの傍でも、バックヤードにいると息が詰まる。実際今までスタンドにいたのも、この空気から逃れるためだ。風に身を晒していれば、この不安定な状態から脱却できると思っていた。しかし外の観衆の喧騒は、更にこちらの不安を煽り立てるだけだった。言い様の無い孤独感。事故をして意識を失い、次に目覚めた病室の薄暗い天井を思い出す。自分以外に誰もおらず、肌寒く、ただ痛みだけがあるあの時間を。
「――……ッ」
「瑠夏っ!」
 鋭い疼きがよぎった。思わずその場にしゃがみ込む。反射的に暁が駆け寄り、こちらの背に触れようとし、
「触らないで」
 自分でもぞっとする程の冷たい声が出た。それでも瑠夏は気丈に続ける。体の内側から震えが溢れ出し、肩を抱いてそれを止めた。
「触らないで。背中が駄目なのは知ってるはず。やめて」
「駄目だ、そんなこと言ってられない。戻ろう。瑠夏」
 彼の手がこちらの肩を掴みかけたが、渾身の力でそれを振り払う。よろめきながらも毅然と立ち上がり、今度は平静を保って囁いた。
「……平気だって言ってるでしょう」
 呆然とする彼を置いて、瑠夏は先に進んだ。スタンドへ通じるゲートをいくつも通り過ぎ、あと一時間半後には人で溢れかえるであろう廊下を宛もなく歩く。それほど速いペースではないのに、呼吸が徐々に乱れていくのが分かった。――何処に行っても無駄なのだ。この息苦しく薄暗い感覚は、少なくとも今日が終わるまではずっと自分に付きまとうだろう。
 勝って。陶子の声が蘇る。当然だ。無論そのつもりでいるし、今までだってそう思ってやってきた。負けたくない。自分にとって負けるということは、飛べなくなることとも同義なのだから――しかしそれは精神的な部分だけの問題で、肉体の方はそうではない。身体は鮮明にあの衝撃を覚えている。あの時の痛みが繰り返されることに慄き、拒絶している。緊張感と闘争心に満たされたこの星望杯独特の空気が、自分の中に長く巣食っている恐怖心を逆撫でするのだ。
 勝って。勝ち続けて頂点に行けば、この気持ちは晴れるのだろうか。
 早く空に行きたい。誰の声も届かず、緊張からも不安からも解放された遥か彼方へ。
「――瑠夏、あぶない!」
 後をついてきていた暁の叫び声が聞こえた。同時に、ふわりと体の重点が前に移動する。下を見やる。それでも、足元が下へと向かう階段になっていることに気が付いたのは、その一瞬後のことだ。
「――あ……」
 一歩先もわからぬほどに、自分は錯乱していたというのか。伸ばした手が空を切った。二年前の事故の感覚が、全身を駆ける。
 がつん、という大きな振動。凄まじい勢いで振り飛ばされたような、身が千切れんばかりの風圧。視界の隅の客席で、逃げ惑う観客たちの姿がスローモーションのように見えた。距離の感覚は既に吹き飛んでいる。衝撃。その事態を上手く把握する前に、意識は真っ黒に断絶されてしまった。
 あの時自分自身が何を考えていたのか、未だに思い出せないでいる。


「ふふ、美味しい」
 生クリームがたっぷり入ったクレープを小さく齧り、隣で雛が笑った。駅で待ち合わせてから一時間と少しが経過し、やっと彼女の存在が馴染んできたのを感じる。空の様子はゆっくりと夕映えに近づいていっているが、祭の火はまだまだ灯ったばかりだ。時間が過ぎると共に増えていく人の波から外れ、マリンドームへと続く階段の途中に並んで座る。
 開場までの時間いっぱいを利用して、公園内の露店をぐるりと一周。翔自身も朝以来何も食べていなかったことを想いだしたが、はしゃぐ彼女を見ているだけで半分くらい満足してしまった。片手に持っていたコーラのカップを横に置き、ポケットから携帯端末を取り出す。画面をホログラムモードに切り替え、雛にも見えやすいように解像度を調整した。
「わっ、凄い。望月さんのFM」
 携帯端末の画面上で、望月瑠夏の機体が手のひらサイズの立体映像になっていた。FMマッチ登録機第1597号・シリウス。全体的に無駄が無く、シートがやや後方についているため、操縦士は機体に身体をぴったり添わせるような姿勢になるのが特徴だ。機頭は尖り、まるで羽を畳んだ鳥を思わせるラインをしていることから、メディアでは『黒鳥』と呼ばれることもある。
「天馬リーグ以外の選手はわからないと思って、選手情報をダウンロードしてきたんだ」
 端末の上で指をスワイプさせ、機体の情報から瑠夏自身のプロフィールに変える。自分や雛と同じ十六歳で操縦士免許を取り、翌年に準戦デビュー。二十一歳で本戦に上がり、二年前は星望杯の出場を果たすが、一回戦の途中で事故を起こし不戦敗――その他、過去の試合データや最近の勝率、試合内容の傾向までがまとめられていた。
 そのままクリックして次々に他リーグの選手に切り替え、選手関連のことはまだわからないだろう雛に一人ずつ簡単に説明していった。地元リーグ以外の選手はさすがの翔でも詳しくなかったため、この一週間でこっそり予習をしてきたのである。
 十五名の各夏大会の覇者の紹介を終え、最後の人物を迎えた。翔の解説を真剣に聞いていた雛が、感嘆したようにぽつりと呟いた。
「この人がチャンピオン……」