Sparrow!!--#5:Flap(14)

 携帯端末に反応し、改札の小さな扉が音も無く開いた。
 弾かれたように走りだす。生前の祖父が趣味にしていたのもあり、長距離走なら少し得意だと密かに自負しているのだが、そんな走り方を試みている状況では無かった。息を切らせ、人ごみに行く手を遮られ、四方八方でぶつかり、それでも掻き分けるように、翔はコンコースを横切っていく。
 ここ『天馬マリンドーム駅』は市内でもそこそこ大きい規模を持つ駅であり、利用客も普段から多い。しかも今日は特別な日だ。駅内を流れる人の量はいつもの三倍、いや五倍以上は膨れ上がり、施設の中に入る前からキャパシティを優に超している。溢れる人々は年齢性別、体格、国籍など多種多様。旅行客と思しき大荷物を抱えている者もよく見られ、地元の者の方が少ないような印象を与えた。――が、今の翔には周りの様子を詳しく観察する余裕など全くない。頭上に吊るされたナビを見ながら、息が上がることも忘れて走る、走る、走る。
 昨夜に眠っていた記憶が殆ど無い。全く子供のような話だが――今日のことを考えると落ち着いていられず、目を開いたり瞑ったりを繰り返していたのだ。確かに星望杯は毎年楽しみにしてはいるが、眠れなくなる程だったことは今までに一度も無い。去年つぐみと観戦した時も、前夜はぐっすり眠れていた気がするのに。
 気付けば時計は六時を回り、普段の起床時間と変わらないほどになっていた。しかし今日は休日で、母は職場に泊まり込んでいるために家には翔一人きりである。いつもの作業着で朝の家事と食事を済ませ、部屋の本やノートを持ってガレージに移動した。何か機械を触っていないと間が持たない。設計図を見ながら、祖父が造りかけで遺したグラビティ・ドライブを弄ってみようと思ったのだ。が、
 眠ってしまっていた。
 寝不足が祟ったのだろう。ガレージの片隅に座ったまま舟を漕いでいたのだ。気付いて飛び起きた時にはもう待ち合わせの二十分前で、思わず本や道具を放り投げて自室に走った。服を選ぶ間もなく着替え、全速力で自転車を漕いで駅まで行き、ホームの電車に飛び乗り、連絡しようと携帯端末を開き――未だに彼女とIDを交換していなかったことに愕然としたのがつい十五分ほど前の話だ。
 午後に待ち合わせを指定したのに、寝ていて遅刻だなんて信じられない。その上連絡もできないなど、誘った方として至らないにも程がある。自責の念に駆られつつも足は速度を緩めず、翔は待ち合わせ場所である南出口前まで一心不乱に走り抜けた。
 人ごみの間に、見慣れた姿が見える。ガラス張りの壁際に立ち、きょろきょろと辺りを見回している飴色のショートヘア。
「雛!!」
 大声で呼ぶと、彼女は即座に反応した。一瞬でこちらを捉えて手を振る。
「――翔!」
 傍まで行くと、雛の方もこちらへ駆け寄ってきた。キャラメル色のジャケットに清楚なブラウスを合わせ、赤いチェック柄のショートパンツから黒タイツの脚が伸びている。中性的な雰囲気が今の髪形とよく合っていて、可愛らしい。引き出しを開けて一番上にあったTシャツに、作業着より少しマシという程度の褪せたジーンズとジャンパーで来た自分とは雲泥の差だ。
「ごめん、かなり遅れて」
「ううん。私も迷ってたから……ちょっと休む?」
 こちらが息を切らしているのを見かねたのか、雛が心配そうに覗きこんできた。頬がほんのり薔薇色で、口唇はつやつやしている。途端に心臓がぎゅっと絞られ、翔は慌てて視線を離した。天井に付いた標識と、通路の先を確認するふりをする。
「――いや、行こう」
 頭の隅でわかってはいるのだ。昨夜眠れなかったのは、星望杯ではなく彼女の所為だということを。
 南出口から伸びる階段を降り切り、二人は外に出た。先週――基礎講習の日と同じように晴れ渡った蒼穹が、天馬市上空を彩っている。パレードのように一方向に流れる人の波に乗りながら、雛が囁くように話し出した。
「私ね、星望杯って、前から名前は知ってたの。だけど、FMの大会だって知らなかった……小さい頃はね、花火だけ見に行ったりしてて」
 星望杯の試合が全て終了すると、マリンドーム後方の海上から数十発の花火が打ち上げられる。最初はただの賑やかしで始められたものだが、今では大会と並んで天馬市の秋の風物詩とも言われる程に定着した。
「好きだったんだけど、お兄ちゃんが中等部に上がったくらいから見に行かなくなっちゃった。四年くらい見てないかも」
「今日は見れるよ。座席の位置的にも、多分正面に上がると思う」
 確か、海に面した西側の席だったはずだ。煌びやかなドームのライトと、優勝者を祝福する幾千の紙吹雪。大輪の打ち上げ花火をバックに弾け飛び交うテープやジェット風船の光景は夏大会よりもはるかに圧巻である。試合もさることながら、これだけでも十分見応えがあるものだ。
「うん。楽しみにしてるね」
 雛がふんわり顔をほころばせた。つんとした刺激が再度胸の奥に沈む。表情の一つ一つにこれほど感じ入っていては、今後自分は持たないのではないか――これから彼女と選手としてやっていくというのに、こうして自分を制御したままでいられるのだろうか、と本気で思う。思うけれど、それでもこの感情に名前を付ける勇気が無い。
 押しも押される人ごみの中にいて、自分自身に臆するあまり彼女の手も取れないでいる。少し前までは、もっと自然に触れられたのに。
 駅から続く通りを渡り切り、短い階段を昇ると、視界は急に開かれた。ドームを囲うように大きく造られた円型の公園の中は、一つの街を形成していると言えるほど賑やかな空間が出来上がっていた。
「わぁ……!」
 雛が感嘆の声を上げた。同時に大勢の一声や音楽が耳に届き、屋台の焼きそばやクランクフルトが焼かれる香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。色とりどりの看板や風船。惣菜やお菓子に紛れ、アクセサリーや衣服まで、幅広い露店が開場を待つ一般客を楽しませていた。一般客と思われる者も、躍ったり楽器を演奏したり、操縦士の格好を模している者まで様々である。
 その誰しもが笑い合い、話し込み、期待と興奮に目を輝かせていた。そしてその後ろには――半球状の根はもう開かれており、トレードマークである澄んだ紺碧を見ることはできないが――天馬マリンドームが、その青い巨体を横たえている。
 星望杯。FMマッチを好み、楽しむ者にとっての最大の祭り。年に一度の大一番が、もうすぐ幕を開けようとしている。


 ドームのすぐ外にある公園から、観衆のざわめきと音楽が聞こえてくる。
 今はまだ空っぽのマリンドームの客席に立ち、漆黒のライダースーツに身を包んだ瑠夏は眼下を見回していた。収容人数はスタンドのみで約七万。客席の北側に取り付けられたスコアボードは黒く沈黙しており、天辺を過ぎた太陽の光を真横に浴びる。外周に並ぶスポットライト達が早く試合を始めろと言わんばかりにぎらつき、一方のグラウンドでは、職員達の手によって試合用のセッティングが施されていた。外周をマットで固め、内側には若葉色の真新しい人工芝が敷き詰められている。
 滑空中にFMがこの人工芝、もしくはドームの一部に少しでも触れれば、残り時間に関係なくその試合では負けが確定するルールだ。それは自分の操作ミスでも、フォール――相手との接触によって直角に落とされる場合でも同じこと。一方空に上がれば、このドームの敷地の中が既定空域となる。地面に着くことと同じく、それを少しでも出れば敗北となるが、高さ的な規定はというと今の所は成されていない。
 浜風が吹いた。空は秋の色に変われど、この匂いだけは夏とは全く変わらない。時刻は午後三時を少し過ぎ、四時半の開場までまだかなりな時間がある。それでも出場選手は早朝に会場入りし、午前中の間に愛機の調整を終わらせていた。
 選手には初めて名前を聞く者から古株までが揃っていたが、皆この舞台に上がって来るのにふさわしい技術と身体、そして精神力を持っている。おかげで、お祭りムードの外とは別世界のような緊張感がこのドーム内には満ち満ちしていた。呼吸をするのも苦しいほどのこの時間を、選手たちは各々入念な準備をし、試合開始の合図までに状態を高めることに当てている。
 絶対的王者、そのただ一人を除いては。
 何かのパフォーマーが盛り立てているのか、ドームの外でどっと歓声が沸き起こった。背が疼く。瑠夏は微かに息を付き、振り切るように踵を返した。