Sparrow!!--#5:Flap(13)

「終わったよ。どう? 気分は」
 ライダースーツのままの陶子が顔を出した。講習が終わったら顔を出すと二人に言い置いていたのだ。彼女は雛を見るなり、ほっとした様子で破顔する。
「宝生さん、落ち着いたみたいね。皆撤収の準備してるけど、帰れそう?」
「だ、大丈夫です。……すみませんでした」
「良いの良いの。酔っちゃうのは珍しいことじゃないから、気にすることじゃないよ」
 翔と同じことを言う。彼女はこちらに近づくと、雛に視線の高さを合わせて顔色を確かめた。
「私だって何度か吐いたことあるし、瑠夏だって……ね。最初はよくあることなんだ。体が慣れない内はちょくちょくこういうことがあるから、嫌かも知れないけど我慢して。だんだん楽になってくしね」
「――そうなんですか」
 あれほど巧みに乗りこなしている二人にも、自分のような時期があったというのが信じられない。雛が驚きに目を見張っていると、陶子は未だグローブを付けたままの手で、こちらの手の甲をきゅっと包んだ。丈夫な生地越しにでも、その体温はしっかりと伝わってくる。まるで、薄い殻の外から親鳥に暖められているように。
「そうだよ。疑似滑空……体感トレーニングを受けてる子でも、これから訓練と本物の差に苦しんでくる。貴方のことを見て笑ってた他の子でも、次は同じことになるかもしれない。皆同じ。だから、先に経験して良かったって思っておくの。これからもそう。試合には相手がいるけど、何よりも自分に負けちゃ駄目。負けないように、ゆっくり確実にものにしていこう」
「――はい」
 艶のある声にかたどられた言葉が、確かに雛の中に染み込んでいく。こちらの返事を聞き、彼女は目を細めて立ち上がった。
「じゃあ私は戻るけど、もう少しゆっくりしてても良いからね。橘川君も、スパローはプラットフォームまで移動させてあるから、後で誰かに声掛けてチェックして」
「わかりました」
 翔が頷く。不時着してすぐにここに移動してきたから、スパローはグラウンドに置いてきたままだったのだ。
「星望杯の関係で来週は無いけど、次回からもよろしく。気を付けて帰ってね」
 陶子は再度こちらに笑いかけ、軽く手を振りながら医務室を後にしていった。有名な選手だというのに、彼女には全く気取ったところが無い。優しく聡明で、容姿の良さや実力だけでは表せないものがある。人気があったというのもよくわかるし、彼女のような操縦士になりたいと思う少女も、きっとたくさんいることだろう。
 いつまでもぐずぐずと塞ぎこんでいられない。陶子の背中を見送り、雛もいそいそとベッドから降りた。
「翔、私着替えて来るね。プラットフォームにいる?」
「うん。スパローの撤収作業してるよ」
「わかった。急いで行くから待っててね」
 ブーツを履き直し、傍らに置かれていたサポーターを抱え込み、日当たりのよい廊下に出ようとしたその時。
「雛、あのさ」
 真面目な声で名を呼ばれ、雛は足を止めて振り向いた。翔は表情を少し緊張させ、二度目に図書室で話をした時と同じく、その大きな瞳にこちらを映している。
「来週の話なんだけど」
 こちらに近づきつつ、翔は作業着の胸元にある内ポケットから白い封筒を抜き取った。それは普通よりも少し細長い。彼は封を開けて、中から青い紙取り出す。
「いつも母さんが貰ってくるんだ。俺の分と、二枚。でも今年はあの人、当日仕事が入って、」
 見覚えのある紙。丁度三カ月ほど前にも、よく似たものを兄から手渡されている。しかし夏は空色だったのに対し、こちらは夜空を模した綺麗な藍色だった。
「だから、つまり、一枚余ってるんだ。丁度指定席だし、ゆっくり観戦できると思う。夏よりもレベルが高いし、チャンピオンの試合も上手くいけば四回見られる。望月さんだって出る。良かったら、俺と行こう」
 吸い寄せられるようにそれを手に取る。間違いない。丁度一週間後に行われる、FMマッチ秋大会――星望杯のチケットだった。
「良いの?」
「あ、当たり前だよ。来てほしい。……駄目だったら、いいけど」
 耳元まで真っ赤になっている。照れくささと狼狽に視線を彷徨わせている彼に、雛は思い切り抱きつきたい衝動に駆られた。
 駄目であるはずが無い。雛は今度こそ力強く頭を振り、それから大きく頷いた。


 国枝に挨拶をし、すれ違う職員らと声を交わしながら、瑠夏が海峰園スタジアムを辞したのは昼を少し過ぎた程の頃だった。
 数年ぶりに吸った空気を体に馴染ませながら、何度も通った赤レンガの道を行く。準戦の試合が無い所為か辺りは閑散としており、道行く人々はこちらを振り返ることはあれど声を掛けることは無い。正午を過ぎた空は来た時よりも濃く、一羽の鳥が浜風に乗ってすっと頭上を横切った。
 ふと、背後に気配を感じた。誰かが軽やかに駆けてくる、ヒールがレンガを弾く音。ただ、この音のリズムを瑠夏はよく知っている。振り向かずに歩調を緩めてやると、近づいてきた彼女は抱き留めるように両手でこちらの右腕を掴んだ。
「やっと追いついた。今日はどうだった? 楽しかった?」
「――陶子」
 ライダースーツから一転、細身のジーンズにチュニック姿の陶子が顔を上げて笑った。自分より三つも上だとは思えぬ屈託の無さに、瑠夏は軽く息をつく。
「……まぁ、ね」
「皆緊張してたよ。あんたがいるって気付いたらさ」
「そう? 陶子のせいじゃないの」
「ふふふ。まぁ、それもあるかもね」
 鈴を揺らすような声を立て、陶子は絡ませていた腕を解いた。そのまま二歩ほど前に躍り出、どこかで聞いたような歌を機嫌良くハミングする。こうしていると、どこにでもいるような普通の女子だ。スーツを着ている時とは、何となく話し方も違っている。動きに合わせて翻る赤い髪を眺めながら、瑠夏は少しだけ胸に引っかかっていたことをぽろりと呟く。
「――あの子」
「うん?」
「大丈夫だった? ……途中で、シェイカーになった」
 シェイカー。口にしておきながら、瑠夏にとっては懐かしい単語だった。これはFM搭乗中に酔い、滑空を止めざるを得なくなった操縦士を指す専門用語だ。
 まだFMに乗り慣れていない初心者が頻繁に陥る状態であり、勿論腕が上がる程この状態になることはなくなるため、本戦に上がれば滅多に見かけることは無い。外野には技術の足りない者を揶揄して使う輩もいるが、そう言う者に限って、これが大抵の操縦士が経験する通過儀礼だということを知らない。
 講習が終わりに向かいかけた頃だ。一人の候補生が――奇しくも、国枝から似ていると言われて注目していた少女が、滑空中にシェイカーになってグラウンドを後にしたのだ。
「大丈夫。顔色見て来たけど、全然問題なかったよ。何? あんたが他人の心配するなんて珍しい」
「別に、普通じゃないの」
 ふいと視線を逸らすと、陶子はまたくすくすと笑った。
「昔はお互いよくなってたよね。――ちょっと落ち込んでたけど、あの子、頑張れるんじゃないかな。私はそんな気がする。良い目をしてたよ」
「……そう」
 髪は短かったが、華奢で可愛らしい雰囲気の少女だったように思う。名前を聞いてみようかと思ったが、やめた。来年の春には準戦の選手として出場するのであれば、その時名前を覚えるのも悪くは無い。
「そっちこそ、調子はどうなの。まだ後遺症があるんでしょ?」
 こちらが独りごちている間に真横に並び、陶子がこちらを覗きこんできた。
「痛みはするけど、滑空には支障ないから」
「ほんとに? 本番、いけるの?」
「うん。いける」
「それなら良いけど。……思いっきりしたらいいからね。あいつちょっと天狗になってるから、一泡吹かせてやればいいよ」
 那智清天のことを“あいつ”だなんて呼べる人物は、瑠夏でさえも数人しか知らない。その内の一人である陶子は、悪戯っぽく言いながら長い髪を左手で掻き上げた。その薬指には、細い銀の指輪が嵌っている。
「瑠夏、頑張ってね。せっかくここまで来たんだから、負けちゃ駄目。勝って」
 あんたには負けない。昔、そう言ってこちらを見てきた時と同じ強い眼差しで、彼女は言い切った。そこには先ほどまでの講師の顔も、少女のように笑う私服の顔も無い。現役の選手だった時代の、勝ちにこだわる操縦士の顔だ。
 ちりり、と火が付く感覚があった。彼女も気付いているだろう。それは、衰えなどとは全く無縁の、命がある限り宿り続ける勝負に生きる者の魂の唸りだ。
「勿論」
 もうどのくらい振りだろうと思いながら、瑠夏は――口角をわずかに上げ、笑った。